第1章 愛(本当のあなた)に目覚めよう

1. 本当の自分に目覚めるために



私達は、誰一人例外なく間違ってきたんです。
しかし、その間違いに自ら気付いていけるのも私達なんです。
間違いとは、私達は、本当の自分(=愛)を信じないで、偽物の自分(≠愛)を信じてきたことです。偽物の自分を自分だと思い込んできたことです。つまり、私達は、これまで誰一人例外なく、自分を含む目に見える、形ある世界が本物の世界だと思い込んできたのです。
当然、そこに喜びであるとか、幸せであるとか、生きがいを探し求めていきます。一生懸命、道を模索していきます。一度きりの人生だと思って……。
しかし、哀しいかな、それでは、いつまで経っても、本当の喜びであるとか、幸せには巡り合えないんです。偽物の自分を自分だと思い込んで、その偽物の自分が、楽しい、嬉しい、幸せ、喜びだと感じているに過ぎないだけなんです。
だから、その楽しみや喜びは、本当に楽しみだけ、喜びだけをあなたにもたらしたわけではないはずです。
楽しみを得るために、喜びを手に入れるために、あなたは苦労しませんでしたか。あなたの心と身体を使いませんでしたか。特に心のほうはどうでしたでしょうか。あなたはどんな心を使ってきましたか。どんな思いを出してきましたか。
そして、その後はどうですか。苦労して手に入れた喜びと幸せであればあるほど、それを守り、また大きくしていくために、さらに、あなたは心と身体を使っていったのではないでしょうか。
そうして、それだけ苦労して手に入れたものも、自分の肉体の消滅とともに、あなたの目の前から消えてなくなっていきます。
もちろん、築いたものは、色々な形となって後に遺されていくでしょう。しかし、同時にそれは苦しみとなっていきます。そこにはまた新たな苦悩が生じていきます。

このように、私達が本物だと思い込んでいる世界、世の中というのは、悲喜こもごもです。その中で、幸せと喜びを感じている人もいれば、悲しみに沈んでいる人もいます。
しかし、それさえも分かりません。その立場は時間の経過とともに逆転していく可能性は、多々あるのではないでしょうか。
今は、幸せであり喜びであっても、ある瞬間から悲しみの奥底に落ちていくこともあります。
そのような悲喜こもごもの中で、一喜一憂していくことが、本当に、本当の人生だと言えるのでしょうか。

世間一般に、人生、色々と言われています。しかし、人生、色々ではありません。喜びも苦しみもあるのが人生ではありません。
本当は、人生は喜びだけなんです。喜びの人生を生きていくのが、私達人間の本来の姿なんです。
それがそうでないのは、私達人間は、本当の自分の人生を生きることを知らないからです。
本当の自分の人生を生きるとは、自分の本当の姿(=愛)を知っていくことです。自分の本当の姿(=愛)を知らないで生きて、死んでいくことが苦しみなんです。
自分の本当の姿(=愛)を知っていくために、自分に用意した時間が、人生の時間です。
そして、その自分を知っていくことが、人生の目的なんです。

愛を知らずに生きてきた私達ですが、どうでしょうか。あなたも今こそ、本当の愛を知っていきませんか。本当のご自分と出会っていきませんか。本当のご自分を感じ知っていくような生き方をなさいませんか。
私は、自分の中の愛(本当の自分)を感じて信じていく方向に、心を向けていくように日々努めています。
ゆったりと静かな時間をできるだけ持つように心掛けています。
具体的には、瞑想の時間を持っています。ただし、瞑想と言っても、色々な瞑想があります。そこで、瞑想に関連して、少々、記しておきます。

瞑想とは、目を閉じて思うことです。
瞑想の一般的なイメージとして、座禅を組んでとか、姿勢を正して精神を統一してとか、反対にリラックスしてとか、そのようなイメージの中で行われているようですが、そういう瞑想はやめてください。
ましてや、滝に当たって、山を駆け巡ってなどという修行はもってのほかです。そんなことで悟りを開くとか、気持ちが洗われるとか、喜びを感じるとか、幸せになるとか、感謝の思いに満たされるとか、そういうことは絶対にありません。
瞑想をするうえで、最も大切なことは、あなたの心がどこに向いているかということなんです。
その確認のないままで、瞑想をするということは、全く良くないことで、そんな瞑想を続けていれば、その人の末路は哀れなものになっていくでしょう。
私がしている瞑想は、そんな瞑想ではありません。
では、どのような瞑想かということですが、その前に、どなたにもやっていただきたいことがあります。それは、母の反省と他力の反省です。

まず、母の反省です。
自分を産んでくれた母親に対して、どんな思いで接してきたか、接しているか、なるべく小さな頃のことを思い出してください。
母親がしてくれたこと、してくれなかったこと、自分が母親にしてあげたこと、という三点に絞って、その時、自分はどんな思いを使ったのか思い出して、ノート等に綴ってみるという反省です。
なぜ母の反省なのかということですが、あなたのお母さんが、あなたに今の肉体をくれたのです。
それは、「はじめに」のところでも書きましたように、あなたが自分に肉体をください、私を産んでくださいと、母になる人にお願いしたからなのです。もちろん、そんなことは、今の段階では、おそらく、みんな知らないと答えるでしょう。
しかし、それは、今はそうであっても、いつの日にか、どなたの心にも感じられることなんです。
そして、それは同時に、自分の今の肉体がなければ、自分に本当のことを伝えることができないと知っていきます。
自分に本当のことを伝えることができなければ、どうなっていくのか。本当はみんな自分の心に知っているんです。ただ、それはあまりにも苦しくて、あまりにも恐怖だから、触れないようにして、誤魔化して日々の時間を過ごしているだけです。
自分の中に蠢くエネルギーを、母を通して、まず感じてくださいというのが、母の反省です。
母の反省をしていって、母親との関わり合いの中で、自分が母親に出してきた思いを知っていけば、自分がどんなに凄まじい思いを、目の前の母親目がけて吐き出してきたかが、はっきりと感じられます。
母親が口を開くたびに、何かをするたびに、自分の心から母親に向かってストレートに出る思いが、どなたにも必ずあります。
その出る思いはどんな思いなのか、そして、そのエネルギーの勢いはどんなものなのかを確認してください。
母親という存在は、自分の中に溜め込んできた思いを、素直にストレートに出してくれるありがたい存在です。
産んでくれて、育ててくれてという親の恩をありがたく受け止め、それに報いるような人間であれという、そんな道徳的なものはどうでもいいことです。
それよりも何よりも、自分の母親に対して出す思いを包み隠さずに、ありのままに感じ、確認していくんです。そのために、自分にとって受け入れ難い母親が目の前にいることを知ってください。
中には、母を敬い、母を美化する人もいるでしょうが、殆どの人は、母親を見下げ蹴散らして、我儘気ままのやりたい放題というところではないでしょうか。
母を敬い、母を美化している人も、もっと自分の心の奥を感じていかれたら、とても、とてもということでしょう。
みんなすごいです。肉体という形を持った目の前にいる母親を通して、自分の中の狂った凄まじいエネルギーを感じていきましょう。
みんな心の中にあるんだから、母の反省をしていけば、必ずどなたも自分の中の狂った凄まじいエネルギーを知っていきます。
知っていくまで、母の反省をしてください。
みんな本当の自分を捨て去った、愛を捨て去ったんです。
温もりなど要らない、愛などくそくらえ、と叫んできた思いを自分の中で確認できるまで、母の反省をしてください。
そして、お母さんと心に思う、心で呼ぶ、そんな時間を持ってください。
そうしていけば、どんなに温もりなど要らない、愛などくそくらえと叫んでいても、それを本当に無条件で、ただただ受け止めてくれていた母の思い(母の温もり)を、いつの日にか、どなたも知っていけるのです。
そうなってくれば、自分が肉体という形を何としても持ちたかった思いが、自分の中ではっきりと確認できます。
どんなに今という時が嬉しくてありがたい時なのか、自ずと自分の心に響いてきます。
まずそんな母の反省と、母を思う時間を設けて、最初は、表面的でいいですから、「お母さん、ごめんなさい。お母さん、ありがとう」と、素直に言えるようになってください。
初めは、それがささやかなものであっても、やがて、「ああ、私は間違ってきたなあ、お母さん、ごめんなさい。お母さん、ありがとう」という思いが、あなたの心の奥底から突き上がってくるんです。
もちろん、それはそんなに簡単にはいきません。
その思いを阻止する思いが、長い、長い転生を経て、それぞれの心の中に溜め込まれているからです。
そして、その阻止する思いとは、肉、形を本物とする思いなんです。我一番の思いです。我は神なりの思いです。
その肉、形を本物とする思い、我一番、我は神なりの思いを、私達は他力の心と言っています。
この他力の心が、私達の心の中にこびりついています。その心は、非常に根深いし、根強い思いなんです。

そこで、母の反省と同時、並行に進めていくのが、他力の反省です。
根深く根強くこびりついている他力の心を知っていくんです。
繰り返します。
他力の心とは、肉、形を本物とする心です。我一番、我は神なりの思いです。
この心を崩していくために、私達は何度も転生してくるのですが、結果はその逆となってしまうのです。崩すどころか、さらに上積みをしてしまう結果でした。
私達人間は、自分の本当の姿を忘れ、自分を肉だと思って、その自分を高め、肉の自分の幸せと喜びを手に入れようと、自分の外に、思いを向け続けてきました。
神、仏の加護と力を求め続けました。いつも比較競争の中にありました。そうして、闘いの後、勝利を収めた者が、覇者となりすべてを牛耳っていきます。人類の歴史は闘いの中にあったと言っても言い過ぎではないでしょう。
もっと言うならば、神と神の闘い。それぞれが神という大義名分を掲げ、己の我欲をむき出しにしていくんです。
そうして得た王者、覇者の地位であっても、いずれはその地位を追われる、つまり、滅亡していくんです。覇権を争い、いつ自分の寝首を掻かれるか、心休まる日など一日もないでしょう。
日本の国、世界の国々の歴史を紐解けば、大体こういう愚かなことを繰り返してきたことが分かります。
人間は、自分の本当の姿に目覚めていくために、何度も、何度も、数え切れないほど転生をしてくるのです。
しかし、その自分達の切なる思いとは裏腹に、転生のたびに、みんな真っ黒なエネルギーを溜め込んでいきます。
しかも、誰もそんなことには、全く気付けませんでした。全く気付けないほど、自分達が堕落してしまったんです。それが私達人間の偽らざる現実です。
地球人類の殆どすべての人が、自分の肉体を指して自分だとしています。今も、もちろん、その基盤の上で生きています。これからもそうでしょう。
また、殆どすべての人が、神や仏というものは、自分達人間とは別個の世界のものだと思っています。では、なぜそう思うのでしょうか。
「人間とはいかなる存在なのか。」
このことが、本当に自分の心で知って分かっていけば、決してそうは思わないはずなんですが、現実はそうでないんです。だから、私達人間が堕落してしまったと言えるんです。
神を心から信じ敬う、神に忠誠を誓う、仏に帰依する、こういうことは、本当に素晴らしいことなのでしょうか。立派なことなのでしょうか。褒められるべきことなのでしょうか。
神や仏の世界を説くというか、感じていく人は、これまでにもあまた出現したことでしょうが、自分とはいかなる存在か、自分の本当の姿を知らず、分からずに説く、神、仏の世界とは一体どんな世界なのでしょうか。
そもそも、悟りとは何でしょうか。自分の本当の姿を見失ったままで、悟りも何もありません。

どうぞ、既成概念をすべて外して、これまでに記してきました母の反省をしてみてください。
転生のたびに、真っ黒なエネルギーを蓄積してきたとか、人類は堕落してしまっているとか、そういうことは、にわかには理解できないとは思いますが、まず、母の反省を通して、自分の心に何かが、確かに何かが響いてくる体験を重ねていかれたらと思います。
ある時は、涙が一筋頬を伝う、ある時には、涙ぐむ、またある時には、涙と鼻水が溢れ出てくるかもしれません。お母さんと心から呼んでみたい、そんな思いが突き上がってくるかもしれません。
それらは、母に向けて出してきた自分の思いとは裏腹で、想定外のことかもしれませんが、そういう体験をされたらいいなあと思います。
そのうちに、自分の頭では訳が分からずに、どう説明していいか分からないけれど、自分の中から反応してくる自分の思いが確かにあることを知っていきます。
黙って、静かにそこに座っておられない状態になるかもしれません。
例えば、自分の中から突き上がってくる思い、それをエネルギーと表現しましょうか。
自分はたくさんのすごいエネルギーを持っている。このエネルギーが自分のこの肉体を動かしているのではないだろうか。
そうすれば、この肉体とこのエネルギーとの関係をどのように理解すればいいのだろうか。
色々、色々、考えてみてください。
そして、考えて出せる結論はないと思いますから、本書に書いてあることが本当のことだと仮定して、それを自分の心で実証してください。

そこで登場するのが、瞑想という作業です。
母の反省と他力の反省を、正しい瞑想を通して、さらに深くしていくんです。
正しい瞑想の「正しい」というのは、あなたの心の向け先を言っています。
先に書きましたように、瞑想をするにあたって、たった一つ重要なことがあります。
あなたが何を思い、どこに心を向けて瞑想をしているのかということです。
それがいわば、真実を知っていけるかどうかの大きな分かれ道です。
それは言うまでもなく、以下の太字のメッセージを大きな、そして、唯一の柱にしたものでなければなりません。

「私達人間の本当の姿は、目に見えません。私達は意識、エネルギーとして永遠に存在しています。」
「私達の本質は愛です。愛のエネルギー、パワーが私達なんです。」

私達は意識だ、愛だと信じて瞑想をするのと、それを信じずに瞑想をするのとでは、瞑想といっても、実は似て非なるものなんです。
そして、このメッセージを私達に伝えてくれたのが、田池留吉という人でした。
田池留吉氏については、拙著『その人、田池留吉Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を始め、UTAブックさん発刊の本にすでに書いていますので、本書では省略させていただきます。
ただ、田池留吉氏は、教祖とか指導者とか、そういう立場の人ではないことだけは、本書でも強調しておきます。

結論を言えば、田池留吉に心を向けて瞑想をするというのが、正しい瞑想なんです。
そこで問題となってくるのは、これまでに、田池留吉氏に会ったことがない人達、会ったことはないけれど名前は聞いている、あるいは写真で顔を知っている人達です。
会ったことはもちろん、顔も知らない、名前も知らない人達は少し置いておくとして、名前を聞いたことがあるとか、写真で顔を見たことがあるというのであれば、その人が、本当に母の反省や他力の反省を通して、自分の心を見るという実践をなさって、自分の心を真実の方向に向けようとしているならば、もちろん、正しい瞑想をすることは理論上、可能です。
というのは、正しい瞑想とは、田池留吉に心を向けるということであって、田池留吉氏に心を向けることではないからです。
田池留吉氏と、田池留吉とは違います。呼び名が同じだから、全く無関係とは言いませんが、決定的な違いがあります。
田池留吉氏は、あなたの外に存在しています。
田池留吉は、あなたの中に存在しています。
しかも、田池留吉というのは、どなたの心の中にも、もともとあった喜びと温もりの意識の世界です。
だから、その人が、本当に前記の太字のメッセージを心で感じて、田池留吉というのもまた、意識、エネルギーだ、愛のエネルギーだととらえようとする方向に、自分の心を素直に向けていけば、今世、田池留吉氏と実際に話をするとかいうお付き合いがなくても、正しい瞑想ができるということです。ただし、これは非常に難しいということも確かです。
しかし、そういう人が、どんどん心を向けてきて、セミナーに参加してみようかということになって、セミナー参加が現実のものとなれば、話はまた違ってきます。
特に田池留吉氏と直接に話をすることがなくても、そういう人であるならば、セミナーに参加したということで、何かその人の意識の世界に届くものがあるはずです。それが本来の意識の世界の仕組みです。
従って、その逆も言えるんです。
前記の太字のメッセージの意識の転回が停滞している人は、よく、よく、田池留吉氏を知っていても、まだまだ真実よりも道遠しということでしょう。
実生活で田池留吉氏をよく知っている、田池留吉氏とお付き合いがあるということと、田池留吉の意識の世界と歩みをともにしているということとは、関連しません。

以上、瞑想ということから、田池留吉氏が、二十年余りに及ぶセミナーで伝えてくれたことを、かいつまんで記してみました。