「愛と死の真実」 

なぜ、人は愛を求めるのか



世相が暗くなればなるほど、命、愛、優しさが求められます。その尊さを見つめ直そうと叫ばれます。
世の中、偽装が大流行です。
しかし、根本的な偽装に、まだ人は気付いていません。
自分が自分だと思っている自分が偽物だとは、まだ、殆どの人が思っていません。
従って、命も永遠のものだと思っていないのでしょう。
死ねばそれで終わり、簡単に言えば、そういうことになると思います。それなのに、人は、永遠の愛を求めます。
自分は永遠だと思っていないけれど、永遠に生き続けたいという願望があるのでしょうか。そして、愛とは永遠のものだと思いたいから、人は愛を探し続けていくのでしょうか。
しかし、自分は永遠に生きるものだと思っていない人が、どうして、愛は永遠だと信じられるのでしょうか。
愛は永遠のものだと思いたいだけなのでしょうか。
本当の自分を知らない人が、愛は永遠なりという言葉を出すのは、無責任だと思いませんか。
そのような無責任な人達が、この世では、案外、悟った人、愛の人と尊敬の眼差しで見られているかもしれません。
いずれにしても、そのことを明らかにする術は、人間を形ととらえる小さな枠組みの中では、決して見つけ出すことはできません。
自分をもっと広く、もっと大きく解き放たなければ、何が真実で、本当の愛とはいかなるものなのかは、分かるはずはないのです。

では、自分を解き放つとは、どういうことでしょうか。

あなたは、今、自分が生きている、存在していると思っている自分から、自分を解き放つということを、考えてみたことがあるでしょうか。
「とりあえず、今を何とかしていこう。今日も一日頑張ろう。一日、一日を大切に爽やかに過ごしていこう。」
そんなふうに色々と思いながら、確実に時間は過ぎ去っていきます。
皆さん、一日があっという間に過ぎていくことを実感していませんか。
人によっては、ある目標を設定して、それに向かって日々頑張って、それなりの充実感、充足感、達成感は得られているかもしれません。
しっかりとした時間を過ごしていると思っておられるかもしれませんが、そういう人達も前にもあったように、何かふっとしたときに、妙な空虚感に襲われることはないでしょうか。
前へ、前へ進んでいこうとしているときには感じられなくても、やがて、達成感や充実感が通り過ぎた後、ふっと心に何か空洞、ぽっかりと空いた穴を感じる時期がやってくると思います。
それぞれの世界で、どれだけ自分を磨き、自分に挑戦しようとも、そして、その結果として、達成感や充実感を満喫しようとも、世間の評価を得ようとも、それらが、自分の心の奥底にある空洞を埋めるものではないからです。
空洞は依然としてしっかりとある状態です。
形の世界の楽しみや喜びは一時的なものであるのと同じく、奮闘努力して得た達成感や充実感もまた、心の空洞を埋めるに値するものではありません。
しかし、私達にはそれがなかなか分からないのです。
みんな、心の奥底にある空洞に気付けないまま、時間を過ごし続けているのだと、私は思っています。
心の奥底にある空洞こそが、本当の自分を置き去りにしたことからくる人間の根源的な寂しさだと、私は感じています。
だから、どんなに栄耀栄華の中にあっても本当の喜びや幸せには巡り会えないのです。その空洞を埋めない限り、人間は、根源的な寂しさから、解き放たれることはないからです。つまり、私達人間が、本当の喜びや幸せに巡り会うためには、心にぽっかりと空いた穴、空洞を埋めていく必要があります。そうです。その埋めていく唯一の方法は、本当の自分との出会いなんです。
しかし、本当の自分を置き去りにして、空洞をしっかりと持った私達人間は、本能的に、肉の愛を求めていきます。
肉の愛を求めても、空洞を埋めることはできないけれども、人は求めずにはいられないのです。
空洞を埋めるには、本当の自分との出会いが唯一の方法と言いましたが、本当の自分との出会いを果たすには、まず偽物の自分を解き放つ必要があります。ただ、その手段を私達人間は全く知らなかったのです。
そもそも、人間は、目に見えて耳に聞こえて、触れることのできる中で、何かを探し続けているだけです。
そして、なぜ探し続けているのか、何を探し続けているのか、それが分からないままに、それでも、それぞれに、自分を賭すものを探すのでしょう。しかし、その中で、自分を賭ける、自分の持てるものを注いでいく、そのエネルギーは、いったいどこからやってくるのだろうかと考える人は、ほとんどいないと思います。
実際に、何かに突き動かされていくかのように、自分が動いていく場合が往々にしてあります。
時には、神業のようなことができれば、あれよあれよという間に、その世界の頂点に上り詰めることだってあるのです。そうなることを目標にして、日々研鑽を積み重ねてきた人の中には、目標は達成されたのだから、それで一時は喜びを感じるでしょう。しかし、中には、実はそうではないかもしれないと薄々感じている人もあるかもしれません。
また、その瞬間に自分の力以上のものが何か働いた、そういうことを感じている人もいると思います。
だから、神に感謝という言葉も出てくるのでしょう。
何か、目に見えない世界があることを、その人達は、そのようなところから感じていくということなのかもしれません。
しかし、所詮は、形の世界を信じているから、何かを感じても、その何かが分からないままです。
そして、思いは、再び目に見える自分を飛躍させる方向へと向いていくだけです。
そうして、結局は、心の空洞を埋めることなく、華々しい人生も幕を閉じていくのでしょう。
人生の幕は閉じられても、心の幕は下せないのです。
引き続き、心の空洞を埋めてくれる何かを人は探し続けるのです。
そのために、人は、また、生まれてきます。
そして、違う人生の幕が上がるけれども、これもだめ、あれもだめの返事が返ってくるだけで、いっこうに空洞を埋めてくれるものに出会えないのです。
だから、ああ、私は幸せだと思いつつも、ふっとまた空虚感というか、寂寥感(せきりょうかん)にさいなまれていくのだと思います。
依然として、心の空洞はそのままです。
地位や名誉や財産などを、ひたすらに求めている間は、心が鈍くなってしまっている状態なので、そういうことは、感じないかもしれません。
しかし、そういう人達も、何かのきっかけで心が敏感になる場合があります。
そうなれば、より一層、自分の中でギャップを感じていくかもしれません。自分の今の華やかな現実と、一方で心の中の空虚感や寂寥感を感じる現実というギャップです。
たとえ、そうであっても、今更ながら、自分の持てるものをみんな捨てて、自分が今、直面しているものと真向かいになっていこうとするエネルギーは、すでに、自分の中で萎えてしまっているかもしれません。
結局はこれでいいのだと自分の中で言い聞かせていく以外にないかもしれません。
苦しい人生です。
社会からは一定の評価を得ても、自分を偽って、自分を誤魔化していく人生は苦しい人生です。
一方、社会悪に染まって、どんどん我が身を落としていく人生も苦しいです。
貧困から自分の心を落とす人生、犯罪に自らの手を染めていく人生、私達は、そのような様々な人生を体験してきたはずです。
私達は、心の空洞を何かで埋めようとしてきたけれども、結局はみんな失敗に終わったのです。
失敗を認めることができなかったから、自分を解き放つことはできませんでした。
自分を解き放つということは、自分を崩すこと、失敗の自分を自分だと認めて受け止めていくことでした。
失敗の自分というものを認めることなどできなかったから、受け入れることなどできなくて、自分を見限ってきたから、自分を解き放つことができなくて当然でした。
このような心の歴史が、どなたの心の中にもひしめいている状態です。
心に空洞があるということは、本当の自分を知らずにきたからなのです。本当の自分を捨て去ってきたからなのです。
本当の自分を捨て去って地獄の奥底をずっと這いずり回ってきたのが、私達人間だったのです。
私は、この事実を、みんなに知ってほしいと思います。
自分の現実から目を背けずに、しっかりと自分の過去と真向かいになることをしてほしいと思います。
心に空洞が開いたまま、ずっと彷徨い続けてきた自分達だったと、一人でも多くの人達に、心で感じていただきたいと思います。
そして、本当の愛、本当の自分というものを、心で感じて知って、本当に幸せな時間を過ごしていただきたい、そう思います。

さて、次の章より、愛することや死ぬことについて、もう少し、しっかりと記していこうと思います。