「意識の流れ」からのメッセージV(二〇〇六年七月から十二月掲載分まで) 二九五、真実を知るのにお金は要りません。本当のことを自分に伝えていくために、このようにして生まれてきて、様々な環境を設定しているからです。全部自分でお膳立てしている教材を使って、そこから自分自身が何かを学び取れるようになっています。 真実を知るのにお金は要りません。本当のことを自分に伝えていくために、このようにして生まれてきて、様々な環境を設定しているからです。全部自分でお膳立てしている教材を使って、そこから自分自身が何かを学び取れるようになっています。だから、真実を知るのにお金は要らないのです。そして、その手立てを教えてくれたのは、田池留吉という人です。 自分や自分の家族の悩み事などを、随分この方に聞いてもらった人もいるのではないでしょうか。もちろん、それは学びの初期のことであり、セミナーという具体的な形もまだ整っていない時期のことだったでしょうし、今そのような人は皆無に近いと思います。しかし、今現在も、案外そういう段階でしかこの学びをとらえることができないというか、そのような次元かそれに近い次元に留まっている人は多いかもしれません。だから、なかなか喜びを感じられない、心の底から湧いて出てくる真実の世界と出会えないのかもしれません。自分を責めたり落ち込ませたり、あるいは自分を素晴らしいものとして認めさせるために、反省や瞑想をするのではないことが分かりません。ただそこには喜びがあるだけであり、本当の喜びと幸せに直結している自分があることが信じられないのです。 二九六、肉を基盤としている意識が語る言葉は、参考にする程度でよかったのです。それをつかまえた側が間違っているのであって、チャネラーに責任を追及するのは、つかまえた側も、また肉が基盤であった証拠です。 目に見えない世界のことを学ぼうとする側にしてみれば、どうしてもその目に見えない世界のことを言葉にするチャネラーという存在に、とらわれます。それは肉を持っていれば避けて通れないものです。確かに、チャネラーという肉は、伝わってくるものを言葉に変換できるかもしれませんが、そんなこと具体的にできなくても、どうということはありません。 今まで伝えてきた通り、その口から出てくる言葉の土台が問題です。肉を基盤としている意識が語る言葉は、参考にする程度でよかったのです。それをつかまえた側が間違っているのであって、チャネラーに責任を追及するのは、つかまえた側も、また肉が基盤であった証拠です。 分かりますか。すべてが他力のエネルギーの中で行われているから、崇め奉り縋り、そして今は突き放しているというか、少しだけ距離を置いているだけで、根本は繋がっています。そういう点を徹底的に自分で見直していくことがなければ、アルバートを感じ信じていくことはできません。 私はチャネラーではないからと言う人もおられますが、それも自分から逃げているだけです。みんながチャネラーだということを自分の肝に銘じて、しっかりと自分の心を見ていってください。 私は、アルバートだけを見つめています。他力のエネルギーと私は合いません。崇められ奉られ縋られても、私は振り向きません。それは、真実の世界を感じている私自身の優しさと厳しさがあるからです。 二九七、「ありがとうー意識の流れの姉妹編ー」という題名の本が出版されることになりました。本は波動、田池留吉の言葉が心に浮かんできます。本に思いを向けた時に、私の心に響いてくる思いはアルバートです。アルバートと心から呼んでいる意識達が、この肉を使って一冊の本になったと思っています。 来月に、「ありがとうー意識の流れ姉妹編ー」という題名の本が出版されることになりました。私自身の学びに集ってきた経緯と、学んできた道筋を綴りました。今世体験してきたことをべースに、自分の思いを自分の言葉で綴っていきました。いい本に仕上がったと思います。 「意識の流れーアルバートとともにー」の時もそうでしたが、その過程が私にとって最も大切でした。すべては自分自身の勉強です。楽しくて嬉しくて、こうやってアルバートを感じながら、学ばせてもらえることが幸せだと思います。 本は波動、田池留吉の言葉が心に浮かんできます。本の「おわりに」の箇所にも書きましたが、本に思いを向けた時に、私の心に響いてくる思いはアルバートです。アルバートと心から呼んでいる意識達が、この肉を使って一冊の本になったと思っています。 私には、導いていくとか、諭すとか、そのような思いはありません。セミナー会場における波動の勉強の場合もそうでしたが、ただ嬉しいだけ、ただ幸せなだけ、アルバートとともに思いを向けていける時間と空間を与えられていることが喜びなのです。ホームページも波動の勉強も本もすべて、ともに学んでいける喜びと幸せの中にあります。来月、その出番を楽しみに待っています。 二九八、田池留吉が命を懸けて伝えてくれたこと、私は真摯に受け止めさせてもらいました。だから、私も命を懸けて、自分に繋いでいこうと思えたのです。自分が自分に繋ぐことの幸せを私は、心の底から味わっています。 私は流れています。今世の私の肉は最高に幸せです。肉をこんな幸せと喜びの中に漂わせていくことができるとはと、私は自分自身を眺めています。二五〇年後の肉はさらに喜びと幸せの中を突き進んでいきます。日々過ぎ去る時間の中で、私は私の進むべき道筋をしっかりと見つめて、時がくればこの肉を置いていけばいいのです。私の中がそのように流れていく中で、私の外もまた大きなうねりを伴いながら、流れていくでしょう。中の流れと外の流れとは決して交わることはありません。いえ、中の流れが外の流れを大きくゆったりと包んでいくと言ったほうが的確かもしれません。 真実の流れは、すべてのものをその中に包み込みながら、悠然と流れていきます。ちっぽけな肉の思いを一気に飲み干す時もあるでしょう。今世、肉を持ちこのような波動の世界に触れさせてもらったこと、これは本当に自分の中の歴史にとって大きな大きな出来事でした。私は、さらにその世界を広げていくと思います。肉の私はどこにでもいる平凡な肉、しかしその肉を通して自分の意識の世界、自分を知った私は、本当に幸せな肉だと思います。 田池留吉が命を懸けて伝えてくれたこと、私は真摯に受け止めさせてもらいました。だから、私も命を懸けて、自分に繋いでいこうと思えたのです。自分が自分に繋ぐことの幸せを私は、心の底から味わっています。 二九九、己偉い思いの意識達が、特に今世チャネラーという肉をまとい、田池留吉の目の前に現れました。もちろん、私も例外ではありません。しかし、私は過去と同じ轍を決して踏まないことを肝に銘じてきたのでしょう。そういう設定になっています。 意識の流れの道筋はもうお分かりかと思います。その流れの中に、田池留吉の肉もあり私の肉もあります。そしてこれらの肉にとらわれたり、引っかかっていては、当然学びの足取りは鈍いでしょう。田池留吉の肉はともかく、私の肉をすんなりと受け入れられない気持ちは分かりますが、それでは遠回りしたり道草をしたりで、非常に効率が悪いと思います。それでも、遠回りをして、道草を食って、意識の流れに乗ることができればそれでいいかもしれませんが、果たしてどうでしょうか。 意識の流れに立ち塞がっているのは、私ではありません。私が自分の前に立ち塞がっていると思うその思いが、意識の流れをせき止めています。己偉い思いの意識達が、特に今世チャネラーという肉をまとい、田池留吉の目の前に現れました。もちろん、私も例外ではありませんでした。しかし、私は過去と同じ轍を決して踏まないことを肝に銘じてきたのでしょう。そういう設定になっており、振り返れば振り返るほど、ああ私は意識の流れの中で、このように肉を持ってきたと合点がいくのです。そのことを感じていくほどに、肉をことさらどうこうしようとしなくても、幸せ喜びの方向に導いていることを感じています。 肉の私を受け入れられる、受け入れられないは、やはりこれから先影響は大きいと思います。意識の勉強でしょうと言う前に、肉の次元で留まっている自分の心を見てほしいです。 三〇〇、目を閉じて思えば、広がっていきます。私はこの中に生きている、この中に存在している、それが私自身です。それはひとつの世界です。 私達はひとつですよ、そう伝えにきてくれた田池留吉の肉に感謝です。今、肉を持っている幸せを感じています。肉を持てたからこそ、真実の波動の世界を知ることができました。その世界にあることを知るために、その世界が自分の世界であることを知っていくために、これまでがあって、これからがある、そしてそれが今という時に集約されています。今は過去でもあり未来でもあった、私はそのような存在であることを心に感じます。 なぜ肉を持つのか、なぜ生まれてこなければならなかったのか、なぜ死んでいくのか、自分の中で長く疑問であり、それは苦しみでしかありませんでした。生を喜ぶ思いは、たちまちのうちに死を恐怖する思いに変わっていきました。 今世、肉を持って、自分自身の根源に触れることができました。真実の波動の世界とともにあるのが自分自身だと、そのように感じながら、肉をそして肉の周囲を感じています。目を閉じて思えば、広がっていきます。私はこの中に生きている、この中に存在している、それが私自身です。それはひとつの世界です。 三〇一、みんなアルバートを忘れ去ってしまったから、その肉を通して、どんどん狂ったエネルギーが放出されて、目を疑うような耳を疑うような出来事が日常的に起こってきます。その流れの中で、アルバートと出会い、アルバートに合わせていくことを待たれているのです。待っているその世界は、とてつもなく大きいです。 田池留吉の意識の世界はとてつもなく広いです。すなわち、アルバートの世界はすごい世界であることが、本当にシンシンと感じられます。そして、それはすなわち自分自身の世界ですから、もうただただ喜びだけだと感じています。こうして、文字にしても、その何万分の一、いえもう微々たるものでしか、表現し得ないことがもどかしいです。言葉がないというのが本当のところです。しかし、私にはそれが紛れもなく自分自身であることが感じられるから、目を閉じて、ただ思うことが、思いを向けられることが嬉しいです。 肉について言えば、みんなそれぞれに何かあります。しかし、それをつかまえるのでもなければ、そこから逃避するのでもなく、映像を見ているかのようになっていけば、そこから伝わってくるものは、やはりありがとうしかないのでしょう。 みんなアルバートを忘れ去ってしまったから、その肉を通して、どんどん狂ったエネルギーが放出されて、目を疑うような耳を疑うような出来事が日常的に起こってきます。それは当然と言えば当然の姿でしょう。狂った意識が顕在化してくるということだと思います。その流れの中で、アルバートと出会い、アルバートに合わせていくことを待たれているのです。待っているその世界は、とてつもなく大きいです。 三〇二、アルバート、本当の私、私が私を思い、私が私を呼ぶ、私が私をさらに喜びと幸せの世界へいざなっていく、その道を感じて幸せです。 私は、今世の時間に自分に回答を出しました。これから自分がどう存在していけばいいのか、きちんと意識の中で回答を出しました。だから私のこれからは、ただひたすら喜びと幸せに満ち溢れていると思っています。それは、自分というものを心で知ったからです。本当の自分を心で感じ信じているからです。肉というものに対しての私の思いは、本当に変わりました。そして、その途上にあることが、嬉しいだけです。来世の肉は厳しい中に出てきますが、それもみんな承知しています。肉は厳しい、もう極限状態だと思うかもしれませんが、私の根幹を揺るがすことはなく、一気に私はその思いを解消していくことでしょう。 だから楽しいです。自分自身がさらなる喜びと幸せへ弾みをつけていくその道筋だと心で感じられるからです。見えてくる風景、感じてくる背景が違えば、こんなに喜びと幸せの中にあった、その体験をまた、させてもらえるなんて、これこそ肉を持ってきた醍醐味だと思います。 アルバート、本当の私、私が私を思い、私が私を呼ぶ、私が私をさらに喜びと幸せの世界へいざなっていく、その道を感じて幸せです。 三〇三、一プラス一イコール二の世界に触れたならば、情に流されずに、その情を大きく包み込みながら流れていくことができると思います。ですが、そのずっとずっと手前のところで、浮いたり沈んだりしているのが、肉の人間の現状です。 何でもシンプルが一番です。複雑怪奇な心の動きの中を、いかに自分で整理して、シンプルな状態にまとめていくかです。雑多なごみの山の中に埋もれた状態では、どれだけ心を見ようとしても、収拾がつかない感じです。きちんと分別して、きちんと点検して、捨てるものは捨てる、それを自分の中でやっていきましょう。 人間にはもちろん感情があります。情というものがあるからこそ、人間なのであって、マシンやロボットとは違います。違うけれど、意識の世界は一プラス一イコール二の世界です。そのことを、肉というものを持って心で知っていくことが、一番難しいことであり、一番大切なことです。情に流されていては、その厳しさと優しさは絶対に分かりません。しかし、一プラス一イコール二の世界に触れたならば、情に流されずに、その情を大きく包み込みながら流れていくことができると思います。ですが、そのずっとずっと手前のところで、浮いたり沈んだりしているのが、肉の人間の現状であって、情があるとか薄いとか、優しい、冷たいとか言って、日々暮らしているのだと思います。自分(意識)を見ずに自分(肉)を見ている毎日なのでしょう。 三〇四、肉の優しさ温もりと、アルバートのそれとは全く違います。アルバートがなければ、本当はそんな優しいどころでないと思います。しかし、肉基盤であれば、それらは充分自分の心を満たしてくれるし、癒してくれます。 肉の優しさや温もりを、本当に喜びとして幸せとして感じていけるのは、アルバートです。それ以外は、どんなに肉で優しくても温もりがあっても、違います。違うのです。そこのところをはっきり知ってください。肉の優しさ温もりと、アルバートのそれとは全く違います。肉の優しさ温もりがあって、アルバートがあるのではありません。その逆です。アルバートがなければ、本当はそんな優しいどころでないと思います。しかし、肉基盤であれば、それらは充分自分の心を満たしてくれるし、癒してくれます。 そうではなかったと数え切れない転生の中で、自ら落ちた穴が無数に心にあります。しかし、それも今は嬉しい、ありがとうと自分に言ってくれます。それは、自分自身が、本当の優しさと温もりに触れ、それが自分から放出しているものだと知ったからでしょう。無限に優しい自分と出会います。これが真のパワーだと、私は感じています。私は私に帰ればいいのだと、そんな単純なことに出会うのに、どれだけの時間を要してきたことか、それだけに、私の喜びと幸せは言葉で言い尽くせるものではありません。そしてその道は、これからも限りなく続いていきます。今世ようやく始まった私の喜びへの道、本当に自分にありがとう、です。 三〇五、意識が横を向いていると言われても、実感のない人は多いです。肉だからです。他力のエネルギーを自分の中で見つめていないからです。道は遠いです。現実をしっかりと見つめ、なぜ生まれてきたのか、なぜ転生が必要なのか、できる限り、自分の中で見ていくことにエネルギーを使ってください。 肉はここにあってもここにあらず、こんな心境で肉の時間を過ごすことができれば、本当に最高に幸せです。何のための肉であるのか、私の基本はここにあります。私は真実を探してずっと存在してきましたし、それと出会うために今の私があったことはすでに確認済みです。この世のどこかに必ず真実はある、これが私の中からの促しでした。肉はこの思いに牽引されてきたと感じています。だから、私の思いは堅固です。白黒がはっきりとしています。自分の中で白黒がつくまでは、肉を構っている余裕などありませんでした。私は自分に一生懸命だったのでしょう。今ももちろん、一生懸命ですけれど、今は少し余裕が出てきました。これからのことに思いを向けられる余裕です。それはとりもなおさず、自分の道を確保できたからだと思います。 真実の世界に誘導するのは、田池留吉ではありません。自分自身です。田池留吉の肉には従順でも、意識は横を向いていては、真実は分からないでしょう。意識が横を向いていると言われても、実感のない人は多いです。肉だからです。他力のエネルギーを自分の中で見つめていないからです。道は遠いです。現実をしっかりと見つめ、なぜ生まれてきたのか、なぜ転生が必要なのか、できる限り、自分の中で見ていくことにエネルギーを使ってください。 三〇六、心を向けてください、心を合わせてください、これは大変危険な表現です。自分を知らずして、生半可な思いで、そして他力のままだと、真実どころか、さらに窮地に自らを落としていく危険性をはらんでいます。 ホームページから流れてくるものは波動です。温かい安らぎとそして、何よりも力強い思いです。さあ、行かんとする思い、非常に現実的です。流れは、ゆったりと悠然として流れているけれど、それは力強くそして確実な流れです。 田池留吉の肉は、崇めるものでもなければ頼るものでもありませんが、真実の世界が田池留吉という肉を持たせたという現実に間違いはありません。いかに、自分の側が他力の心を見ていくかによって、その現実が大きな喜びとなるか、それともさらに他力の中に沈んでいくか、だと思います。 心を向けてください、心を合わせてください、これは大変危険な表現です。自分を知らずして、生半可な思いで、そして他力のままだと、真実どころか、さらに窮地に自らを落としていく危険性をはらんでいます。命懸けという意味がまだよく分かっておられないかもしれません。特に他力信仰を重ねてこられた人は、本当に大変だと思います。その大変さが今ひとつ自分自身で、ピンときていないのが現状でしょう。 本当は何もかも捨て置いて、ただひたすらにということなのでしょうが、実際問題として難しいです。だからこそ、熾烈なこれからの時間が用意されているということなのだと思います。 三〇七、心を合わせることを知っています。また、合わすことができます。これが最大のポイントでしょう。これさえできれば、軌道修正は容易です。 何も思い煩うことはなし、そういった思いが心に返ってきます。目を閉じて、心を合わせれば、そのような思いが伝わってきて、ああ肉は下らないというところに落ち着きます。 心を合わせることを知っています。また、合わすことができます。これが最大のポイントでしょう。これさえできれば、軌道修正は容易いです。 少し前にも書きましたが、肉のゴチャゴチャの中でどんなに心を見ていっても、肉の中です。肉の思いの中で、ああだこうだの繰り返し、それでは心を見ているつもりであっても、心を見ていないことになります。肉のゴチャゴチャをどんなに掘り下げてもゴチャゴチャに変わりはありません。自分の心が苦しいと感じるために、ゴチャゴチャがあるのであって、苦しい自分が間違っていると分からなければ、ゴチャゴチャはゴチャゴチャにしか過ぎないし、いつまでもそこに、はまっていては、進歩発展がありません。 ゴチャゴチャを客観視する、中に入り込まないで浮き出てくる思いだけを、自分の中で見つめていく、そうすれば、どんなに自分が間違ってきたか、どんなに肉をつかんできたか、どんなに苦しみの中を荒れ狂ってきたか、きちんと自分の心は伝えてきます。その伝えてきた思いを、ただ淡々と受け止めていく、もうそれでどんなに自分が愛されて許されて受け入れられてきたかを、感じていきます。 そのために肉があり、肉の周りがあるだけです。そういう見方をしていけばいいのではないでしょうか。 三〇八、肉を生かす術などいくらでもあります。肉に注ぐエネルギーで自分を幸せにできるならば、人間などとっくの昔に幸せになっていました。それに気付けないほどちっぽけな自分になってしまった、その意識は本当に哀れです。 真実の門は広いようで狭い、狭いようで広いです。この意味が分かりますか。誰でもが分かることでありますが、みんなが分かるようになるということではありません。分からないように阻止しているのが自分であることが分からないから、みんなが分かるには難しいのです。それでも、大勢に影響はありません。流れに何ら変わることはなし、悠然と時は流れ、粛々と事は成立していく、すごいと思います。 存在そのものが喜びであったのに、なぜ喜びでなくなったのか、誰がそのようにしてしまったのか、瞑想をして思いを向けていけば、自ずと答えは出てきます。全く間違った存在に成り果ててしまった、これはもう懺悔しかないと思います。裏切り破滅してもなお存在している、この現実を自分の中で、どのように感じていくのか、肉にかまける生活の中では、決してそのような思いに触れていくことはあり得ません。そのような奥深い自分の慟哭に触れることなくして、なぜ幸せ喜びの自分と出会えるのかと、私は思います。 肉を生かす術などいくらでもあります。肉に注ぐエネルギーで自分を幸せにできるならば、人間などとっくの昔に幸せになっていました。それに気付けないほどちっぽけな自分になってしまった、その意識は本当に哀れです。 三〇九、私は嬉しいだけです。本当に幸せな存在だと思います。そして、そこに到達するまで、自分自身は苦しみ喘ぐ、いわゆる地獄の奥底に沈み込んだままの状態です。その地獄の様相を、肉を持って実際に展開していきます。この地獄は自分ですよと自分に示しているだけなのに、それらに気付けずにまた地獄の奥底に帰っていく、これが転生の実態でした。 何かがあって、誰かがいて幸せであり喜びであるならば、そういったものがなくなってしまえば、どうなるのでしょうか。それがそのまま悲しみや苦しさになるのではないでしょうか。自分の心に幸せと喜びをもたらしてくれるものは何なのか、絶えず問いかけて、そしてまた検証していくことは大切だと思います。 自分を幸せに喜びに導いてくれるのは自分以外にない、誰も何も幸せにしてくれない、喜びを与えてくれない、このことを、肉を持って知っていかなければならないことでした。 もともと幸せと喜びの自分であることに気付いていくことは、肉がなければ不可能だった、だからずっと転生してきたのだ、自分に注ぐ思いは限りない優しさであり、温もりだった、今世の時間を通して心で知りました。 だから、私は嬉しいだけです。本当に幸せな存在だと思います。しかし、このことは言って分かるものではないし、教えられて分かるものでもありません。それぞれが自分で気付いていかない限り、どうすることもできません。そして、そこに到達するまで自分自身は苦しみ喘ぐ、いわゆる地獄の奥底に沈み込んだままの状態です。その地獄の様相を、肉を持って実際に展開していきます。この地獄は自分ですよと自分に示しているだけなのに、それらに気付けずにまた地獄の奥底に帰っていく、これが転生の実態でした。 三一〇、どんなに悩み苦しんで、それを周りに訴えても、そんな悩みや苦しみから自分を解き放すことは、できないのです。自分の悩みや苦しみは自分のものです。自分の中で何とかしなければ、何ともならないことを、本当に感じていってほしいのです。 「意識の流れ」はもちろんそうですが、「ありがとう」も本当は読んで分かるものではありません。確かに「意識の流れ」と比べて、肉の体験をはさむことによって、肉として少し身近に感じてもらえるかもしれません。しかし、私の意図するところを、それぞれの心で汲んでもらえるのは、やはりそれぞれの体験を通してそれぞれが心を見られて、自分の間違いに気付いていかれることが前提にあります。 それぞれの体験は比較すべきものでもないし、またどんなに悩み苦しんで、それを周りに訴えても、そんな悩みや苦しみから自分を解き放すことは、できないのです。自分の悩みや苦しみは自分のものです。自分の中で何とかしなければ、何ともならないことを、本当に感じていってほしいのです。 また、悩みや愚痴を聞いて同調するのは、本当の優しさではありません。あなたの言いたいことは私にはよく分かると、肉は分かるかもしれませんが、聞く側もその基盤を見ていけば、そんなどころではないと思います。 学びをしている人であるならば、いい加減なところで話をストップして、それぞれが心を見てそしてアルバートを思うだけです。しかし、学んでいない人には、この手法は通用しません。だから、右から左へと素通りさせる術を心得てください。それが相手に対する優しさです。もちろん、自分自身に対しての優しさでもあると私は思っています。 三一一、アルバートと出会う現実が、どんなに嬉しいか、どんなに優しいか、ここを知っている意識とそうでない意識の違いは、肉の心にも、もちろん影響していきます。同じものを見て聞いて、肉で感じて思うことに違いがなくても、その思いをエスカレートさせません。つかまえずに散らしてしまいます。 肉の自分でない自分を知っている、これに尽きると思います。 肉の思うこと、考えることなど、みんなそう違わない、肉の思いは似たり寄ったりです。自分と相反する部分もあるけれど、共通する部分もかなりあるから、肉の話をすれば、分かる、分かる、よく分かるとなります。中には、意気投合して仲間意識を深めて、大いに盛り上がっていく場合もあります。 それはそれで楽しいでしょう。しかし、もっと楽しいことがあります。もっと嬉しくてそして何よりも幸せ感が広がっていくことがあります。それは、自分と対話することです。自分と向かい合うことです。目を閉じれば、そこは自分自身の世界です。自分があるだけです。今、アルバートと表現しています。そう、アルバートがあります。アルバートと出会う現実が、どんなに嬉しいか、どんなに優しいか、ここを知っている意識とそうでない意識の違いは、肉の心にも、もちろん影響していきます。同じものを見て聞いて、肉で感じて思うことに違いがなくても、その思いをエスカレートさせません。つかまえずに散らしてしまいます。スカみたいな心境になれば、肉の心も軽いです。そんなものよりもっと大事なものを知っているからです。 三一二、あなたがあなたに帰るようになっている道は、決して自分を苦しめる道ではありません。その逆です。喜びへみんな喜びを目指して帰ろうとしています。こんな優しさはありません。こんな温もりはありません。こんな幸せはありません。 気が滅入る、むしゃくしゃする、怒り心頭に発する、あるいはたまらなく寂しさを感じる、底なしの恐怖や不安が押し寄せてくる、その他様々な思いの中で、今までやってこられたと思います。そしてまた、これからもそれらの様々な思いを見せてくれる場面を設定されていることでしょう。 しかし、それらはみんな肉を本物とする思いの根深さを示しているだけです。その間違いを自らに指し示している、そのことに本当に心で気付いていったなら、そこにあるのはただ喜びだけです。ありがとうの思いだけです。 実践を通して、人ひとりが気付いていってください、それがあなたの道です、あなたはあなたに帰るようになっています、これがセミナーを通して田池留吉すなわちアルバートがずっと伝え続けてくれていたメッセージでした。 あなたがあなたに帰るようになっている道は、決して自分を苦しめる道ではありません。その逆です。喜びへみんな喜びを目指して帰ろうとしています。こんな優しさはありません。こんな温もりはありません。こんな幸せはありません。それが分からないから、それを知らないから、それを信じようとしないから、不幸せなだけです。 本当の自分の思いに触れずして幸せ喜びは分からない、単純なことでした。 三一三、自分の中でマグマのように噴き出しているドロドロは、いつまでも放置することはできないし、いずれそれは間違いなく表面化してきます。マグマの噴火は止めることはできません。カーテンコールを起こすようなドラマの出来に仕上げられるかどうか、自分自身にチャンスを与えていきます。 様々な出来事の中で、心を見ることを知らなければ、また実行していなければ、結局は自分の手の中で自分自身が翻弄されていくに過ぎないことを、実感しています。 人生ドラマとは、自分で書き上げて自分で演出していくドラマです。そのドラマが拍手喝さいで幕を閉じ、そしてカーテンコールが起きる、観客も出演者もみんな一丸になって大成功を喜び合う中で、ひとつのドラマが終了していく、この感覚を味わうことができるのは、心を見ることを知っていて実践を重ねていくことを条件とします。 上辺だけで肉の時間を費やしていては、ドラマのすごさは感じられません。奥深さが分からないからです。薄っぺらな幸せや喜びを感じて、また苦しみや辛さを感じて、一喜一憂しながら肉の時間を通り過ぎていけば、せっかくのドラマの醍醐味をみんな流していっていることになります。 自分の中でマグマのように噴き出しているドロドロは、いつまでも放置することはできないし、いずれそれは間違いなく表面化してきます。マグマの噴火は止めることはできません。カーテンコールを起こすようなドラマの出来に仕上げられるかどうか、自分自身にチャンスを与えていきます。二五〇年かけて何度かのチャンスを用意しているということでしょう。 三一四、真実を心で知るために生まれてきたことを心で感じている私にとって、肉の色々なことで自分の心棒が揺らぐことはないのです。アルバートとは私にとって、そのような存在です。 心を見なさい、あなたは間違ってきました、現象はみんなそう伝えてくれています。肉で推し量り、肉の力を駆使して事に対処する、それこそが自分を知らずにそびえ立っている何よりの証です。意識の世界は動いています。確かなる流れのもとに今、ゆっくりと動いています。間違って存在し続けてきたことを、流れは確実に伝えてきます。それを感じ自分の中で味わえるようになってください。そこから伝わってくるものは、限りない優しさと温もりです。そして厳しさです。肉で生き続けてきた意識にとっては、それは、当然受け入れ難いものです。しかしすべてをご破算にして自分が間違っていたと、心で分からなければ、何一つ変わらないのです。意識の世界は正確です。その世界が肉の形を通して、自分に伝えてくれているだけのことです。 私は真実を心で知るために生まれてきたことを、本当に心で感じてきました。そのために生まれてきたことを心で感じている私にとって、肉の色々なことで自分の心棒が揺らぐことはないのです。アルバートとは私にとって、そのような存在です。肉を持って肉の生活を営みながら、しかし、肉に溺れることはありません。アルバートに出会うための転生だったと心で知ったからです。 三一五、アルバートを感じる心に、自分を邪険にする思いなどひとかけらもありません。苦しい私と出会ってありがとう、もちろん喜びの私と出会ってまたありがとう、これしかないと思います。 私達は狂ってきました。今も狂っています。周りを見つめればその自覚がない人がほとんどです。自分達はまともだと思っているから、噴き出てくるマグマが信じられないし、慌てふためくのです。あなたはどうですか。そうですね、一瞬たじろぐかもしれません。しかし、それだけではあまりにもお粗末です。 チャンス到来、転機の時だと心は飛び跳ねるように嬉しいですか。自分が間違ってきたと心の底から思えたなら、そうです、その間違ってきた自分が初めて見えてきたのだから、こんなに嬉しいことはないのです。それが苦しいとか暗く落ち込むとか言うのは、もうお分かりかと思いますが、何も学んでいない、何も分かっていない、何も変わっていない、ただそびえ立つ自分があるだけ、これが現実の自分の世界なのです。 認められなければ、受け入れられなければ、その思いが自分を苦しめていきます。自分を自分で苦しめていきます。それが意識の世界です。自分を自分で苦しめていくのも意識の世界なら、幸せと喜びの思いをどんどん大きく広くしていくのも自分です。私は自分を愛しています。自分が愛しいです。苦しんでいる自分がいれば、抱きしめてやりたいです。それが今世の時間に私自身が学ばせていただいた成果です。アルバートを感じる心に、自分を邪険にする思いなどひとかけらもありません。苦しい私と出会ってありがとう、もちろん喜びの私と出会ってまたありがとう、これしかないと思います。 三一六、見方、感じ方の次元が違うとはっきりと感じているから、肉はそびえ立たないのです。ただ違うことを感じているだけです。肉こそすべてだと叫んでいる意識達とは全く異質のものであり、全く通じ合わないことを感じています。 分かれば簡単なことでした。田池留吉を思う、アルバートを思う、それだけでした。田池留吉もアルバートも自分自身だった、だから心で思うことができます。心を向け心を合わすことができるのです。そうしていれば、本当に何も案ずるものはありませんでした。その意識の仕組み、その意識の流れを心で感じながら、肉の世界を見ています。私自身がひとつの肉をまとって、そういう見方ができること自体、幸せだと思います。 数え切れない転生を重ね、今という時に出会わせてもらったことが本当に嬉しいです。苦しんでのた打ち回って、ようやく自分の中に明るさを見出し始めた今世のこの時間だという思いが、寄せては返す波のように、心の中に沸き起こってきます。それらは大きく強くアルバートとともにと叫んでいます。伝わってくる思いは喜びです。この現実の前には、どれだけ肉こそすべてだと叫んでいる意識達と出会わせてもらっても、全く異質のものであり、全く通じ合わないことを感じています。見方、感じ方の次元が違うとはっきりと感じます。はっきりと感じているから、肉はそびえ立たないのです。ただ違うことを感じているだけです。私は中途半端は嫌いです。自分に決着がつかないから、何度も転生をしてきました。そして、ようやくその目処が立ち、二五〇年後の転生はその締めくくりとなります。嬉しい限りです。 三一七、自分に優しい存在の仕方を、肉の現象から学んでいきませんか。そうすれば、形ではないことが分かると思います。どれだけ形を整えても、優しさがなければ、それはいずれ崩れていきます。間違っているというメッセージを流している自分の存在に気付いていくことが、本当の優しさであり温もりだと私は思います。 この学びを遂行するには、ある意味で賢明なる我一番のエネルギーが必要です。それは真の意味において、我一番ということです。我一番のエネルギーは、それこそマイナスのエネルギーを莫大に蓄積しています。しかし、それをプラスに変えれば、それはそのまま、また大きなエネルギーとして仕事をしていくのです。いつまでもマイナスのままだから、だめなだけで、そこに気付いていけば、何ということもないのです。 と、このように言っていますが、現実、難しいです。ちっぽけな我一番を大きなものとして、認識しているのだから、その矛先を変えていくのは並大抵のことではないと思います。その鍵を握るのは、やはり素直ということでしょうか。積み上げてきたものを全部崩して、ご破算にして、まず第一歩を踏み出すくらいの思いに立ち返ることが必要かと思います。 今更そんなことができるか、そのような思いも上がってくるでしょうが、それは大いに肉の思いであって、中はそうしてくれることを待ち望んでいると思います。自分に優しい存在の仕方を、肉の現象から学んでいきませんか。そうすれば、形ではないことが分かると思います。どれだけ形を整えても、優しさがなければ、それはいずれ崩れていきます。間違っているというメッセージを流している自分の存在に気付いていくことが本当の優しさであり温もりだと私は思います。 三一八、アルバートがあるから、肉の生活があります。肉の生活、肉はアルバートを知っていくためにありました。アルバートを自分の中で大きく強くしていくために、これからの肉もあり、これからの私もあります。それにそぐわないものは、自然に私から消えていきます。 肉でどんなに優しい言葉を聞き、態度を示されても、所詮それらは肉です。肉の優しさや温もりは十二分に伝わり、ありがとうと思えるけれど、アルバートを語り合えないなら、所詮その程度で留まってしまいます。それでどうなるということではありません。そこのところは徹底しています。完全に一線を引いています。肉では感じることはできないかもしれないけれど、私の思いはそうです。 アルバートがあるから、肉の生活があります。肉の生活、肉はアルバートを知っていくためにありました。アルバートを自分の中で大きく強くしていくために、これからの肉もあり、これからの私もあります。それにそぐわないものは、自然に私から消えていきます。私は、私の中ととともに存在していくだけです。それが私の幸せであり喜びであると、今世自分の中で、信じられるようになりました。私は私を信じられる、そう思える自分になった、これが私の幸せであり喜びです。こうなるまでに、それこそ泥沼の中でもがき苦しんできました。真っ暗な暗闇の中で、どれほど自分を呪い殺してきたことか、それが今はようやく明るさを見出したのです。生半可な思いで、今を生きているのではないことを感じます。 しかし、肉は愚かだし、つまらないことで少しうろうろするかもしれませんが、それも私には、大したことはありません。アルバートを知る私には、どうでもいいことだと思っているからです。 三一九、思いの向け先に何かしら欲の思いがあれば話は違うけれど、私はただ思っているだけです。そうすれば、自然に心は和んできます。振り返れば、学びの最初、ただ思うということが困難でした。田池留吉という肉にも抵抗があり、何を思えばいいのか、どう思えばいいのか、頭だけをグルグル巡らせていたことを思い出します。 目を閉じて、丹田呼吸をひとつ、ふたつ…して、ふうっと思えば通じる世界を信じていますか。思いの向け先に何かしら欲の思いがあれば話は違うけれど、私はただ思っているだけです。そうすれば、自然に心は和んできます。キュッと緊張したり、さざ波が起こったりと色々あるけれど、大体いつも穏やかに過ごすことができます。楽です。 振り返れば、学びの最初、ただ思うということが困難でした。田池留吉という肉にも抵抗があり、何を思えばいいのか、どう思えばいいのか、頭だけをグルグル巡らせていたことを思い出します。今月から受付が始まった勉強会に新たに参加される人達にとっても、このただ思うということが難しいとなるのではないでしょうか。このようなご利益がありますよと謳われているならば、熱心にされるかもしれませんが、この学びはそういうことは一切ないですから、他力信仰に凝り固まっている人達には難しいと思います。 しかし、心で分かれば、真実はここにしかないことも、そして思うことがどれだけ喜びであるのかということも、だから自分という存在がどれだけ幸せであるかということも、みんな心で納得します。アルバートと呼べることが幸せであり、喜びであることなど言うに及ばずです。肉を見ながら肉を見ずに感じる世界、田池留吉の肉が伝えてくれました。 三二〇、「意識の流れ」勉強会の受付が始まりました。素晴らしい自分になるために、立派な自分にさらに磨きをかけるために学んでいこう、あるいは何かを学び取っていきたい、もしこのような思いがあるとするならば、残念ながらその期待に応えることはできません。 いわゆるセミナーはもう終わりましたが、実際に「意識の流れ」勉強会の受付が始まれば、私の思いはそのほうへ自然に向いていきます。また、三回もともに学ぶことができる機会を与えられて、私は嬉しい限りです。私が私に与えた機会を喜んで受けていきたいと思っています。 新たに勉強会に集ってくる人達も、肉や肉の環境はそれぞれ様々で色々あると思いますが、みんなに共通なのは、みんながみんな間違ってきた、間違っているということだと思います。少しでもそのことを自分の中で認めることができるように、勉強会の機会を、ぜひ活用していただきたいと思います。 素晴らしい自分になるために、立派な自分にさらに磨きをかけるために学んでいこう、あるいは何かを学び取っていきたい、もしこのような思いがあるとするならば、残念ながらその期待に応えることはできません。 しかし、自分自身の何がどのように間違っているのか、真剣に生きる道を探し求めている人にならば、きっと何らかのメッセージは心に届くことでしょう。そして、そのメッセージをもとに、それから先はそれぞれが選択していかなければなりません。その方向は指し示すことができます。あとは自分次第です。 実生活の教材の中で、いかにアルバートへの道を見つけることができるか、骨の髄まで他力どっぷりでは大変困難ことだと感じられると思います。その困難な道をあえて選択されることを願っています。 三二一、自分が間違ってきましたと感じていくためには、自分の中がそれ相当に煮詰まっていなければ難しいと思います。煮詰まるとは、真実に目覚める準備が整えられている状態を言います。肉を見れば、することも言うことも思うことも大差はないようですが、やはり意識の世界は、その準備の差があることは否定できません。 ひとつの現象から、私は間違ってきましたと気付いていくことは難しいと思います。それが人生の転機となるような現象であっても、チャンスをふいにしていくことは往々にしてあります。何か気付きを促されているのだと感じられても、自分が間違ってきましたと感じていくためには、自分の中がそれ相当に煮詰まっていなければ難しいと思います。煮詰まるとは、真実に目覚める準備が整えられている状態を言います。肉を見れば、することも言うことも思うことも大差はないようですが、やはり意識の世界は、その準備の差があることは否定できません。 そういう状況の中で、私は今世に照準を合わせてきただけのことです。真実を心で知る計画を立ててきた私は、当然ながら、中が相当煮詰まった段階で、この学びと出会わせてもらいました。田池留吉との出会いがありました。それでも肉の殻を通って薄らぼんやりと中に響いてくるまでに、数年の月日が必要でした。それほど肉の殻は厚いということです。ましてや、中がまだ煮詰まっていない状態であれば、どうかということは想像できると思います。 しかし、確かに意識の世界はまだ煮詰まっていない状態かもしれませんが、今世の仕事は、今世心で学んだことを、自分自身の転生に繋いでいくということですから、肉を終えるその瞬間まで、自分にとっては大切な時間と空間です。そのように自分を見つめ、今を見つめていくことが、何よりも大切なことだと思います。 三二二、意識の流れを本当に心で感じておられる方は少ないです。意識の流れがあると肉で知ったかもしれませんが、それを実感として心でとらえている意識はまだまだ少ないです。 意識の流れを本当に心で感じておられる方は少ないです。意識の流れがあると肉で知ったかもしれませんが、それを実感として心でとらえている意識はまだまだ少ないです。流れの中の今だということが信じられないのは当たり前です。前述しました通り、中がまだ煮詰まっていない状態だからです。 二五〇年、三〇〇年という時間の猶予はあります。その期限内に、間違いなく次元移行が遂行されていきます。中が煮詰まるような時間と空間を経て、再びお会いしましょうと私はいつもメッセージを送っています。 ともに歩んでいきましょう、ともに行きましょうという私の思いは、時を越えて続いていきます。その思いに応えるか否か、それはそれぞれに委ねられていることも伝えてきました。こうして、何度も伝えることができる今を私は嬉しく思っています。全く違う次元からお伝えしている私の思い、私の波動の世界です。肉を持ってそのことを受け止めていくことは難しいと思いますが、これもまた意識の流れの中の出来事です。そのようにすべては計らいの中にあります。 どうぞ、心を見てください。どうぞ、自分を見つめてください。どうぞ、自分を受け入れてください。意識の自分があるだけです。 三二三、ありがとうで始まってありがとうで終わる、アルバートが分かってくれば、どのような肉の関係もそうなっていくと思います。肉がそのようになっていくから、さらにアルバートの世界が深まっていくのでしょう。 自分なりに精一杯学んでその肉を終えていってください。自分のために用意してきた肉を、精一杯自分のために活用して、そしてその肉にありがとうと言って肉を置いていってください。肉にはありがとうしかありません。どんな肉でもどんな環境でも、ありがとうと自分に言える人生は、最高に幸せだと思います。 本当の優しさと温もりを知って初めて、自分のために生きることが分かります。自分のために生きて初めて、優しさと温もりに満ち溢れている自分自身だったと知ります。そしてまた、本当の優しさと温もりに出会っていくのです。この循環を自分の中で見出していけば、あとは簡単です。目を閉じれば、そこには確かなる自分の世界があります。 このような世界を感じていけば、夫婦となってくれてありがとう、親子の結びつきをありがとう、執着ではなくただありがとうと思いを向けていけるのではないでしょうか。 ありがとうで始まってありがとうで終わる、アルバートが分かってくれば、どのような肉の関係もそうなっていくと思います。肉がそのようになっていくから、さらにアルバートの世界が深まっていくのでしょう。肉を持って、その肉に響いてくる思いを確認できる今が、幸せなのです。苦しみではなく喜び、そう思えますか。 三二四、アルバートの存在を知りアルバートが分かってくれば、どのように存在し、どのように対処していくのか、何も常識や道徳などを持ち出さなくても、それ相当の形となって現れていく、私はこのように感じています。 人それぞれの生き方があります。常識や道徳を基準にしてこうあるべきと主張するつもりは私にはないけれど、しかし、アルバートの存在を知りアルバートが分かってくれば、その人それぞれの生き方が段々に似通ってくると思っています。どのように存在し、どのように対処していくのか、何も常識や道徳などを持ち出さなくても、自ずとある基準に則って、それ相当の形となって現れていく、私はこのように感じています。 アルバートは法だからです。常識や道徳などとは全く次元が違います。アルバートに則って、形をなしていくのと、常識通り、道徳的に形を収めていくのとでは、全く違います。しかし、アルバートが分かってくれば、形は常識通り、道徳にかなったようになってくると思います。常識通りだし、道徳にかなっているのだけれど、そこに窮屈さはないのです。自然に人としてあるべき姿がそこに現れているだけで、そして、本当はそういうことは、ちっぽけなどうでもいいことだと感じているから、形は型どおりであっても、そんなものに自分自身が縛られるはずがありません。 それよりも、もっとすごい世界を感じている、もっと大きくて広い自分を感じている、だからこそ形は常識等の範囲内で、きちっと収まっていくと思うし、従って、無用なトラブルは起きてこないと思います。 三二五、肉の世界では、自分を中心に据えて生きていくことは、自己中心的だと思われています。周りを配慮して気配りが充分な人は、いい人だと評価されます。しかし、自分の今あるところを心で知れば、どのような評価を受けても、自分に厳しい判定が返ってくるのではないでしょうか。中が違う、違うと反発をしてきます。 肉の世界では、自分を中心に据えて生きていくことは、自己中心的だと思われています。周りを配慮して気配りが充分な人は、いい人だと評価されます。しかし、自分の今あるところを心で知れば、どのような評価を受けても、自分に厳しい判定が返ってくるのではないでしょうか。中が違う、違うと反発をしてきます。自分自身をなおざりにして、人に優しくはできないことを伝えてくると思います。お前のそれは、見せかけの優しさ、上っ面だけの優しさと温もりだと、冷ややかな目で見ている自分を感じないでしょうか。確かに、受ける側も自分を知らないのだから、当然その優しさや温もりは、乾いた心を潤し癒してくれると思っています。そして、優しさと温もりを求めて、また放浪の旅を続けていくのです。 しかし、本当の優しさや温もりを知った心には、それは通用しません。私はその旅をストップさせ、新たに別ルートの道筋を歩み出しています。その門出を自分自身が一番喜んでくれました。こんなに大勢の仲間達がいたのに、私はその仲間達を放置してきたのです。その仲間達は、私にこんこんと湧き出てく喜びと幸せを感じさせてくれます。時には怒涛のように押し寄せてくることもあるし、本当に優しくふんわりと包んでくれることもあります。そんな仲間達の本当の思いを、長く放置してきたことを感じずにはいられなかったし、私の世界は、肉でどうこうできるものでもなかったことを学ばせていただきました。 三二六、真実に出会うまで苦しみます。偽物の自分を握っていては、どんなにしても苦しみから解き放たれることはありません。握っているのは自分であって、それすら分からないところまで落ちてしまった、この現実を受け入れるまで、なお苦しみは続いていくでしょう。 真実に出会うまで苦しみます。偽物の自分を握っていては、どんなにしても苦しみから解き放たれることはありません。握っているのは自分であって、それすら分からないところまで落ちてしまった、この現実を受け入れるまで、なお苦しみは続いていくでしょう。 なぜ苦しんでいるのか、どうして苦しみの淵に自ら沈んでいくのか、自分の中でその問いかけは、絶え間なく続いていくでしょう。間違っているというシグナルを絶えず送ってきます。耳を傾けないだけです。耳を傾けずに、心を向けずに、解決策を得ようとしても、それは無理なことです。回答は自分の中にあるからです。自分の中にしか回答はないからです。こんな単純なことがどうして分からないのか、それはやはり偽物の自分を握っているからでしょう。 所詮、堂々巡りなのです。暗い循環を自分が変えていかなければ何も始まりません。堂々巡りということも分からない、暗い循環ということも分からない、何も分からずに肉を持ち肉を捨てていく意識がほとんどです。頭は冴えているかもしれません。処世術に長けているかもしれません。しかし、本当のことが分かってくれば、それで自分自身がどうなるものでもないことが、骨身にしみてくると思います。そうなれば、ではどうすればいいのか、骨身にしみてくると同時に、それも自然に心で分かってきます。 道を求める意識と肉を求める意識、当然、生き方、死に方、存在の仕方が全く違います。 三二七、愚かな肉の中に肉として生きて、悩み苦しみ、ボロボロになってようやく自らの中に明るさを見出していくということなのではないでしょうか。苦しめばいいのです。悩めばいいのです。とことん落ちて、しかしそこからいかに這い上がっていくか、私はその過程こそが重要だと思っています。 学びを伝えるならば、喜びで伝えてください。教祖、指導的な思いから、または転ばぬ先の杖の感覚で、たとえば我が子に学んでほしいという思いを見ていってください。それぞれ、気付いて修正していくべき道筋にあります。この学びは真実ですが、だからと言ってそれぞれはそれぞれの中で、そして自分自身で気付いていかなければ、その真実は結実していきません。 それぞれの中にみんな間違いの原因を蓄えています。自ら蓄えてきたものです。そして条件が揃い整えば、それが現れてくるだけです。噴き出すものは噴き出していかなければ、気付けないのです。噴き出していても、愚かな肉はまだなかなか気付けないというのが現状です。条件ばかりに思いがいくからです。間違っているのは自分です。 知識としてあることと、実際にそれを自分の中で活かしていくこととは違います。自分の中で活かしていくためには、ある程度の肉の体験が必要です。愚かな肉の中に肉として生きて、悩み苦しみ、ボロボロになってようやく自らの中に明るさを見出していくということなのではないでしょうか。私自身はそう思っています。苦しめばいいのです。悩めばいいのです。とことん落ちて、しかしそこからいかに這い上がっていくか、私はその過程こそが重要だと思っています。労せずして分かるものではありません。そんな簡単な道ではないことを伝えます。 三二八、自分の中で悩んで苦しんで、だからこそ自分の中でその悩み苦しみが間違っていて、自分は間違っていたことを自分自身で気付いていく喜びがあるのです。 自分の中で悩んで苦しんで、だからこそ自分の中でその悩み苦しみが間違っていて、自分は間違っていたことを自分自身で気付いていく喜びがあるのです。それは自分で気付いたのだから、何事にも左右されません。自分が自分に指し示した一本の真っ直ぐな道です。人の言動に促されてのそれとは違います。自分で見つけた道です。自分で真っ直ぐにとらえた道です。この感覚がなければ、喜びを持続することは難しいです。人の評価などどうでもいい、自分が自分に納得しなければ、決して幸せなどとは思えないし、喜びなど泡のように消えていきます。 だから軟弱な人間は、真実を見出していくのは難しいです。生真面目とか堅物とかいうのではなく、自分に対してやはり誠実であり忠実でなければ難しいということです。大らかに笑っているその笑いの中で、秘めたるものをきちんと自分の中で確認しながら生きていく、自分の、自分による、自分のための人生、そのような時間と空間を広げていくことが何よりの幸せだと思います。 三二九、どんなに慰めや励ましや同情などを受けて気は晴れても、中はすっきりとしていません。なぜならば、汚いものに全部蓋をしているからです。汚いものにまみれて、ヘドが出るほどの自分と付き合って、その中で感じていくものがあります。その中でしか感じられないものがあります。 苦しみや悩みを聞いてもらいたい、分かってほしい、何とかしてほしい、根底にあるのは他力の心です。何とかしてほしいというのは、違う間違っている、叶わないことだと聞かされてきたから、それはそうだと思っているかもしれません。しかし、聞いてほしい、分かってほしいという思いはどうでしょうか。何かアドバイスをと特に望んでいるつもりはないけれど、聞いてもらっていたら、自分の苦しい立場などを承知してもらっていたら、ということはないでしょうか。 話をして気持ちが楽になるということもあるでしょう。もしかしたら、同じような体験、経験から、何かの参考になるかもしれません。しかし、根本的には何も変わっていないのです。自分を自分で変える、そのためにはどうすればいいのか、その手法はすでに承知のはずです。それしか方法はありません。どんなに慰めや励ましや同情などを受けて気は晴れても、中はすっきりとしていません。なぜならば、汚いものに全部蓋をしているからです。 汚いものにまみれて、ヘドが出るほどの自分と付き合って、その中で感じていくものがあります。その中でしか感じられないものがあります。 三三〇、自己選択、自己責任、大変分かりやすくて素晴らしいことだと思います。真実への道はこうでなくてはと思います。 自己選択、自己責任、大変分かりやすくて素晴らしいことだと思います。真実への道はこうでなくてはと思います。どんな自分でもよかった、どんなに狂っていてもよかった、私は自由でした。自由の中で自由に選ぶことを許されていました。過去には運命だと嘆き悲しむ数々の人生ドラマの転生があったでしょう。しかし、それもこれも今という時を迎え、その今が過去でもあり未来でもあったことを、自分の中で知っていくためのものでした。私という時間の中で今という一点、この一点がこれからの私のすべてを物語っていくだろうと思います。恨み呪いの呪縛からようやく自分を解き放し始めたことは、本当に何にも代えられないものです。 肉の中に肉がある以上、人との繋がりも社会との繋がりももちろんお金もある程度必要です。そんなの当たり前です。しかし、それらによって、私自身の存在は動きません。また私自身の確立した世界、すなわちアルバートがあるから、ある程度の必要枠内でそれらとのお付き合いができるのだと思います。私はそういうものに溺れていません。自分にとって何よりも大切なものを知っています。知っているからこそ必要枠内で付き合っていくことができるのであって、そうでなければ、どんなに見栄を張っても、やはりそちらのほうに吸い寄せられていくでしょう。それもまた自己選択、自己責任です。 三三一、最初は、悩んだり迷ったりしても、やがてありがとうの思いを自分の中で広げることができたなら、その人は本当に幸せだと思います。心からありがとうと言える、心からありがとうと思える、そして心からそのような自分を自分だと思うことができる、これに優る幸せはないと思います。 ふと周りを見渡せば、幸せだと感じるでしょう。恵まれてきた自分自身をしみじみと感じませんか。何を嘆き、何に悩み苦しんできたのか、今となっては懐かしいのではないでしょうか。 最初は、悩んだり迷ったりしても、やがてありがとうの思いを自分の中で広げることができたなら、その人は本当に幸せだと思います。心からありがとうと言える、心からありがとうと思える、そして心からそのような自分を自分だと思うことができる、これに優る幸せはないと思います。今このようにして、肉を持たせてくれた自分自身に感謝する思いが湧き出てくる、幸せな時間と空間でしょう。 ところで、私は、犬から教えてもらったことがたくさんありますし、今もそうです。犬は自然です。私達人間によって歪められた部分もありますが、犬はいいです。人間の貪欲さ、他力の心をつくづくと感じさせてもらっています。犬に限らず、自然に帰れと、愚かな私達に様々なところからそのメッセージを伝えてもらっています。みんなそう呼びかけてくれています。内からも外からもみんなひとつになって、アルバートに向いていける喜びを、絶えず享受できるようになっています。それが私達だと思います。幸せだね、嬉しいね、たとえば犬はそう語ってくれています。 三三二、肉の世界には自己破産というものがあります。身勝手なことだけど、そういう救済措置が講じられます。意識の世界はどうでしょうか。自己破産を名乗り出ても、どこまでもその責任は追求されていきます。 肉の世界には自己破産というものがあります。身勝手なことだけど、そういう救済措置が講じられます。意識の世界はどうでしょうか。自己破産を名乗り出ても、どこまでもその責任は追及されていきます。そこを何とかということは、意識の世界にはありません。だからこそ、意識の世界を信じる信を深めていけば、それに対して十二分に応えてくれます。 とらえる角度により、様々な風景を見せたり、感じさせたりする肉の世界です。人生色々、人それぞれ、みんな勝手気ままに自己中心的な自由を楽しんでいます。刹那的に楽しいかもしれませんが、空しさも寂しさも決して拭い切れるものではありません。そして、その空しさや寂しさを埋めるために、心は外にどんどん向いていきます。そして、幸せや喜びや生きがいを感じるためには、元手が必要です。資本を投じて、心はどんどん外に向いていき、やがて自分をさらに窮地に陥れていきます。そして、最悪自己破産です。しかし、自己破産をして、自己破産を起こした自分の根本に触れていく人はほとんど皆無に近いでしょう。それで免罪だと思っています。そのような在り方をずっと続けているから、肉を持たずとも肉を持っても、ずっと苦しみの中にあるのでしょう。 三三三、真実はひとつです。真実は昨日までこうでしたが、今日からはこうですなんていうことはありません。何を基盤にしているか、意識、波動を基盤にしているから、真実はひとつであり、永遠に変わることはないのです。追加された太陽系の惑星のニュースを聞かれましたか。 最近のニュースに、太陽系の惑星のことがありました。学問的なことより、占星術、星占いの世界が、それによりいい加減なものだったということを明かすものだと私は感じました。これまでに伝えられていたことに新しい事実が加わったということは、それまでのことは間違いだったということであり、間違いだったものを基礎にして、こうですよ、ああですよと語ってきたことに対して、どのように責任を取っていくのでしょうか。何とでも言い逃れはできるかもしれませんが、甚だ冷や汗ものだと思います。 真実はひとつです。真実は昨日までこうでしたが、今日からはこうですなんていうことはありません。何を基盤にしているか、意識、波動を基盤にしているから、真実はひとつであり、永遠に変わることはないのです。 私は、三つ追加された惑星のニュースを聞きながら、これもまた宗教の世界が崩れていく中の流れであると感じました。占星術やら星占いなどを信じている人で、このニュースを見聞きして、どのように思われたでしょうか。これからも色々なことで、宗教の世界の愚かさが露呈されていきます。そうなってきますが、自分の心を宗教の世界から離していくのは、並大抵のことではない現実に、同時に直面していくのではないでしょうか。 三三四、自分に嘘はつけません。自分を誤魔化すことなどできません。なぜならば、本当の自分に帰ろう、帰ろうとしているからです。必ず伝えてきます。間違っていることを自分は必ず伝えてきます。だから自分は間違ってきたことを感じていくことが、幸せの道、喜びの道なのだと思います。 日々、肉との係わり合いから、社会との係わり合いから、そういうものを片方で持ちながら、しかし基本は自分の中との対話です。周りの風景に溺れることなく、絶えず自分と自分の世界に存在していることを確認する時間、それが肉本来の時間です。 私とあなたは夫婦であって、私とあなたは親子であって、私とあなたは友達であって、それよりも何よりも優先すべきことがありました。それを中心に据えての夫婦であり、親子であり友達関係です。ただ今世はそういう関係にあるだけであって、そこから学ぶべきものがあるから、自分の周りに配しています。 深く入り込むのは、自分の世界です。肉との関係を中心に据えて、深く入り込むのではなく、アルバートを中心に据えて、様々な関係の中から学び取っていくのが肉の時間だと思います。中心棒は肉にあるのではなく、アルバートにある、そのような思いで、日々の時間を過ごしているかどうか、絶えず自分で検証していけばいいのです。自分に嘘はつけません。自分を誤魔化すことなどできません。なぜならば、本当の自分に帰ろう、帰ろうとしているからです。必ず伝えてきます。間違っていることを自分は必ず伝えてきます。だから自分は間違ってきたことを感じていくことが、幸せの道、喜びの道なのだと思います。 三三五、自分が広げてきた世界が間違っていた、だから私はこれだけ苦しみ続けてきたのだ、自分が苦しい世界にいたのだ、そう心から気付いていくことができたなら、さあその次はどうしますか、その世界から飛び出ようとするのではないでしょうか。幸いなことに、その方法は聞き知っています。 何かに気付いていく、それは喜びであり嬉しさでしょう。何とも言えない清々しさが心を満たしていくのは、間違ってきた土台のもとで存在し続けてきた自分自身が、そこにはっきりと感じられるからです。自分が広げてきた世界が間違っていた、だから私はこれだけ苦しみ続けてきたのだ、自分が苦しい世界にいたのだ、そう心から気付いていくことができたなら、さあその次はどうしますか。その世界から飛び出ようとするのではないでしょうか。幸いなことに、その方法は聞き知っています。 焦らずにたゆまずに、そのことを念頭に置いていけば、自分の生きていく方向は自ずと定まってくるし、周りの風景も自分の中で違って見えてきます。同じことを見て聞いていても、数年前の自分とは中が違っているからでしょう。肉を持っている時間と空間が自分にとって限りない優しさであることが感じられます。自分というものの存在が本当に愛されていることを感じます。誰に何に愛されているか、言うまでもなく本当の自分にです。自分に自分が支えられている、自分を生かすエネルギーがある、このことを知れば、ただただ嬉しいだけなのではないでしょうか。 三三六、どんなに平和を叫んでも、戦いの火種は消し去ることなどできません。平和を叫ぶその心の世界を知らないからです。その心の世界そのものが戦いを助長していることを認めることができません。主義主張を通し、正義を振りかざして、徹底的にやるかやられるかの戦いを続けていきます。 どんなに平和を叫んでも、戦いの火種は消し去ることなどできません。平和を叫ぶその心の世界を知らないからです。その心の世界そのものが戦いを助長していることを認めることができません。主義主張を通し、正義を振りかざして、徹底的にやるかやられるかの戦いを続けていきます。我一番なりの神と金に牛耳られている意識は、そのエネルギーともども破滅の道を選んでいくのです。 気付いた意識は、その道筋を歩むのを止めるでしょう。間違いなくそうします。間違いだとはっきりと心で分かるからです。自分を滅ぼすエネルギーを流してきた思いが、ドーンと心に響き、これ以上自分を滅ぼすことなどできないことを感じていきます。 形の世界に生きてきた意識を変える流れがあります。本流に帰ろうとする流れは、むろん大変厳しいです。厳しいですが、それが本当の優しさであり温もりです。本当の優しさと温もりに気付きなさいという促しは、形に生きる意識にはただただ厳しい、無情としか受け取れないでしょう。しかし、それは限りない優しさであり温もりであり、ただひとつの真実を伝えてくれるものなのです。アルバートを感じてくれば、そういうものなんだ、それが本当のことだったんだ、そう思っていこうではなくて、自然にそしてはっきりと感じ取っていくことができると思います。 三三七、何をどのように取捨選択していくか、自分の中心に据えるものを自分で選び、その結果もまた自分のものとして享受していく、公平かつ公正な世界が意識の世界です。だから信じられる、だから自分を賭けていくことができます。 何をどのように取捨選択していくか、自分の中心に据えるものを自分で選び、その結果もまた自分のものとして享受していく、公平かつ公正な世界が意識の世界です。だから信じられる、だから自分を賭けていくことができます。自分に自分を預けていくことの安心感をようやく味わっています。 いいのか、本当にそれでいいのか、今世もまた何度も自分の中でその問いかけがありました。その回答をなかなか自分の中で見つけることができずにきましたが、どうしても納得できない自分があったからこそ、よかったのです。人生こんなものだと思えない何かがあったから、今の私があるのだと思っています。 今肉を持って、まず二五〇年後に意識を繋いだという事実は、私の中では大きな出来事です。そして、そこを足掛かりにして、ずっとどこまでも学びの途上です。自分というものがそういう存在であることを感じているから、私は幸せなのだと思います。ずっとどこまでも続いている、喜びへ喜びへと続いているのが私なのだと感じているから、私はようやく自分に自分を預けていけるのだと思います。 三三八、日々、他力の根深さを感じています。それはすなわち自分自身の歴史の深さです。私はこうやってその中を存在し続けてきたのだとしみじみと感じ、同時にそのような自分が、このようにアルバートの存在を確信できるに至ったことが、本当に幸せだと思わざるを得ません。 みんな道を探していると思います。肉は分からずとも、そしてまた肉を本物とする思いから、その道は間違ってしまったけれど、何かを求めているのは確かです。自分を探しているのでしょう。結局それが何なのか分かるまで、苦しみは続きます。こうですよと肉に伝えてもらって、それを活用しない、できないのは本当に残念であり、もったいないと思います。自分で決めてきたシナリオと言えばそれまでです。そうかもしれません。いえそうでしょう。 日々、他力の根深さを感じています。それはすなわち自分自身の歴史の深さです。私はこうやってその中を存在し続けてきたのだとしみじみと感じ、同時にそのような自分が、このようにアルバートの存在を確信できるに至ったことが、本当に幸せだと思わざるを得ません。 これもまた、流れでありシナリオと言えばそれまでです。しかし、その流れ通り、シナリオ通り、事が成就されていくことが、やはり愚かな肉には驚異です。肉に生きていれば、そうでしょう。二五〇年後とか、次元移行など、とっても信じられるものではありません。どこに確たる証拠があるのか、それを示してくれたら信じていく、そのような他力のエネルギーしか感じられません。それでもいい、私は私の探し求めてきた道をひたすらに進んでいきます。 三三九、自分の実態を知ったとき、愕然としましたが、しかしそれは大きな喜びでした。自分を崩していける喜びでした。ようやく本当の自分が何かということを自ずと知っていきました。パワーを隠れ蓑にしなくても、私はパワーそのものでした。それに目覚めた、アルバートを知った、だから肉も大切にしていきます。 肉のことをいい加減にしているのではありません。肉のことも大切だと思っています。アルバートがある中でそう思うのと、それを飛ばして生きていくのとでは、全く違うことを強調しています。大切の意味が全く違います。アルバートがなければ、私にはどれだけ形の世界が華やかに賑やかに楽しく装っていても、無味乾燥にしか受け取れなかったのです。だから、いつも違う、違うというものしか自分には返ってこなかったです。違う、違うというものを、これでいいとか、こういうものだと、何かそれを納得させる理由付けをいつも、自分にしていたように思います。 心を見ていけば、いつも自分に反発して自分に全然素直でない卑屈な哀れな自分がありました。空威張りして、空元気で、ビクビクして、井の中の蛙のような私でした。だからパワー、それをカモフラージュするためにパワーが必要だったことを知りました。 自分の実態を知ったとき、愕然としましたが、しかしそれは大きな喜びでした。自分を崩していける喜びでした。ようやく本当の自分が何かということを自ずと知っていきました。パワーを隠れ蓑にしなくても、私はパワーそのものでした。それに目覚めた、アルバートを知った、だから肉も大切にしています。 三四〇、動機が違い、学ぶ姿勢が間違っていれば、日々の時間の経過とともに真実の世界から疎くなっていきます。真実の世界について、アルバートの世界について認識不足だから脱落していくでしょう。 二者択一の選択です。あれもこれも選ぶことはできません。アルバートとそれ以外は共存共栄はあり得ないです。そういうことを、私達は学んできました。セミナーの時間と空間の中で学んできたはずです。 今はもうセミナーはありませんし、三回の勉強会は参加条件がありますので、どなたでも参加できるということはないですから、あとは自分で学んでいく以外にありません。当然、学ぶ動機が間違っている方々は脱落していくでしょう。真実の世界について、アルバートの世界について認識不足だからです。優しさと温もりは厳しさに支えられています。本当の優しさと温もりがあるから、厳しくもあるのです。 動機が違い、学ぶ姿勢が間違っていれば、日々の時間の経過とともに真実の世界から疎くなっていきます。田池留吉には好意を持っているかもしれませんが、その田池留吉の波動、その世界を心で受け取っていくこととは趣が違います。セミナーがある間は、田池留吉に好意を持っていて、それで結構楽しかったかもしれませんが、それと学ぶこととのズレが、セミナーがなくなってから目立ってくるのではないでしょうか。 一方で、その後現象より、何かに気付き始めた、セミナーに行っていた頃より真剣に自分を見つめ始めている、そういう人もまたあるかもしれません。本当に、それぞれの道ですね。 三四一、心を見ることをしていけば、自分の目と自分を見つめている目との隔たりの大きさを感じます。自分の目を通して伝わってくるものに翻弄されていたことを感じていくはずです。涼しげで淡々としていて、それでいて真っ直ぐに真実を見つめている優しくて厳しい目、どなたも持ち合わせています。 自分自身を見つめている目があります。どなたにもあります。涼しげで淡々と真実を見つめる目です。その目は、真っ直ぐに伝えます。真実の目を通して伝えてくるものを、どのように受け取っていくかでしょう。 大抵は、その伝わってくるものとの隔たりが大きいところにいます。隔たりが大きいから、途中、途切れたり曲がったりして、真っ直ぐに雑音も映像の乱れもなく伝わってくるということは難しいけれど、たとえば、その隔たりを少しずつでも小さくしていけたならば、音質も画質もきっと変わってくるはずです。そういう状態になれば、自分の現状について信頼できる情報が届きます。自分に伝えてくる情報が確かなものだと認識できれば、その情報をもとに、これからどのように自分は動いていけばいいのか、方向が定まります。 心を見ることをしていけば、自分の目と自分を見つめている目との隔たりの大きさを感じます。自分の目を通して伝わってくるものに翻弄されていたことを感じていくはずです。涼しげで淡々としていて、それでいて真っ直ぐに真実を見つめている優しくて厳しい目、どなたも持ち合わせています。出会いと気付きを待ち望んでいると思います。 三四二、日々のメッセージは誰に伝えているものでもなく、私が私自身に伝えているものです。他力のエネルギーの中に沈んでしまっていた自分自身に、何度も何度も呼びかけてきました。肉を信じてきた意識がどれだけ地に落ちてしまったのか、心で知っています。 心をドロドロに汚し落としてきても、私はなおこのように喜びの中にあります。瞑想をすれば、自分に思いを向ければ、いつもこのような思いが感じられて、しみじみと幸せです。今が正念場、今世が正念場、今を外して今世を外して何もないことを心から感じている私が、私自身に伝えているメッセージです。 日々のメッセージは誰に伝えているものでもなく、私が私自身に伝えているものです。他力のエネルギーの中に沈んでしまっていた自分自身に、何度も何度も呼びかけてきました。一段高いところからの呼びかけではないはずです。なぜならば、私は自分を知っているからです。肉を信じてきた意識がどれだけ地に落ちてしまったのか、心で知っています。肉的な優しさや温もりの裏の恐ろしさ冷酷さ狡猜さ、支配するエネルギーも、そびえ立ちのエネルギーも、充分承知しています。 それでもチャンスを得て、今に至っています。私には後ろ髪を引かれるような、マイナスのイメージで心を残すようなものは何もないに等しいです。アルバート一直線と決めてきた我が人生にふさわしい環境です。来世もまた同様な環境を設定しています。思いのままにアルバート、それが私の今世であり来世です。 三四三、アルバートを知らない人間、つまりその意識は苦しみであることは明らかだと言えます。肉しか信じられないということは、どんなにしても苦しみでしかありません。そして、それすらも分からなくなってしまっている現実だと明言できるのです 言うか言わずかの違いだけであって、それぞれみんな何かあります。目の上のたんこぶ的なものがあります。これがなかったら、どれだけすっきりするか、心のギザギザを思い起こさせるものがあります。それをいかに自分の中でクリアしていくか、いかに心を滑らかにしていくことができるか、ツンツンしたとげの先が丸くなれば、それだけ自分が軽くなっていきます。肉を持っているとはそういうことだと思います。とげ先を持っていること、それも猛毒を含んでいること、それを知るために生まれてくるのではないでしょうか。 角と角とを突き合せ、槍や鉄砲で応酬しても、爆弾を投げ入れても、憎き輩《やから》は消え去ることはありませんでした。抹殺してやろうとしてきた自分のエネルギーで、自滅するだけでした。私はこのような意識の世界を過去よりずっと広げてきたのです。今、私を見つめる目を通し、真っ直ぐに自分の世界を感じ語ることができることが嬉しいです。今、その目はアルバートをとらえているからこそ、自分が広げてきた世界はただ嬉しいだけなのです。そして、だからこそ、アルバートを知らない人間、つまりその意識は苦しみであることは明らかだと言えます。肉しか信じられないということは、どんなにしても苦しみでしかありません。そして、それすらも分からなくなってしまっている現実だと明言できるのです。 三四四、喜びが自分だと心で分からない限り、何とも重い真っ暗な中から出てくることは難しいです。もがけばもがくほど苦しいから、やがてそういうこともしなくなります。そして、固まったままの状態でまた肉を持ってきます。 喜びが自分だと心で分からない限り、何とも重い真っ暗な中から出てくることは難しいです。もがけばもがくほど苦しいから、やがてそういうこともしなくなります。そして、固まったままの状態でまた肉を持ってきます。肉を持ってくれば、目先の賑わいで何となく心が浮かれます。もちろん、楽しいことや嬉しいことばかりではないのが肉の時間ですが、それでもそうやって時を過ごしていけば何となく、あるいは、時には一生懸命日々精進して、それなりの喜びと幸せは感じられるかもしれません。 しかし、それもその場限りです。やがて時が来れば、肉を離していくことになります。意識の世界は依然として固まったままの状態ですから、また従来の苦しみが自分を覆い尽くしていくという過程を経ていくのでしょう。 固まったままの意識を解きほぐしていかなければなりません。それは自分を崩していくということです。己をしっかと保持したままでは、到底その殻を崩すということはできません。鎧や兜を身にまとい、さらに重苦しいものを重ねていくことが、肉に生きるということです。 肉に生きる、肉で生きる、肉を持てばそれは当たり前になります。しかし、それはあまりにも自分に冷た過ぎます。この自分に冷たいが分からないのです。心根は優しい、いえ肉で生きる、肉として生きることは冷たいのです。 三四五、私は毎日が楽しいです。肉に付随する心は、その時々で微妙に違いますが、それも私にはあまり大したことではありません。自分の探し続けてきたものに巡り合い、確実にそれを育てていこうとしている自分を感じているからです。 私は毎日が楽しいです。肉に付随する心は、その時々で微妙に違いますが、それも私にはあまり大したことではありません。自分の探し続けてきたものに巡り合い、確実にそれを育てていこうとしている自分を感じているからです。肉の楽しみや嬉しさなど、人並みに味わっているつもりだし、私自身は満足しています。しかし、それもこれも私には何よりも大切なものがあるからです。それを知っているから、肉も楽しいし、生活を楽しむことができます。 永遠に学びの途上であることに違いありませんが、今世は一応目処が立ちました。この土台で、私自身は学んでいくという目標が設定されたことを、何より自分自身嬉しく思っています。それがあっての肉であり、肉の生活です。だから、基本的には、これからの肉の時間は楽しく、よかった、よかった、ありがとうと過ごすことができると思っています。 そして、二五〇年後に向けて、さらに準備が整っていくと思います。まず、今世に照準を合わせ、そして二五〇年後に合わせていく、自分自身の計画が着々と整えられていることを嬉しく感じています。 今、私は私をこのように眺めています。肉の自分、肉の時間、これからの時間、あなたはどのような思いで見つめ、生活なさっていますか。 三四六、自分を知っていくために肉を持ってくるのです。どん底の自分を知っていくために生まれてきます。己に溺れ、己に甘く、依頼心が強く、そして己を軽く冷たくあしらっていることに気付けない意識、それが地獄の奥底にあるということです。このことだけでも自分の心で分かっていけば、その後の存在の仕方が随分と違ってくると思います。 日々の生活から学び取っていきます。生活するために日々があるのではなく、自分を成長させていくために日々そして周りがあります。そのことを自覚していないから、日々の出来事に心を留め悩み苦しみ、そして泣き笑いをするだけです。環境がどうとか、夫が妻が親が子が上司が部下が友達が、そういうことではなくて、自分に目覚めているかどうかだけです。自分に目覚めることなくして、本当のことは何も分かりません。環境のせいでもなく、周りに配してきた人間関係でもなく、自分の問題です。自分自身が本当のことを知っていけば、つまり自分に目覚めていけば、そういうものは自分に気付かせるためのものだったということが自ずと分かってきます。 自分を知っていくために肉を持ってくるのです。どん底の自分を知っていくために生まれてきます。その着眼点、出発点が違っていれば、せっかくの学びの場も結実していきません。肉を持ったという公平な立場から、それではそれぞれがそれをどのように自分のために活かしていくのか、ポイントはそれだけです。 己に溺れ、己に甘く、依頼心が強く、そして己を軽く冷たくあしらっていることに気付けない意識、それが地獄の奥底にあるということです。それに気付くために肉を持ってくる、このことだけでも自分の心で分かっていけば、その後の存在の仕方が随分と違ってくると思います。 三四七、窮すれば、その人の実情が分かります。実情とは、窮状にある形の世界の現状ではなく、その人の意識の世界です。その人にとって、一番大切なものは何か、はっきりと浮かび上がってきます。浮かび上がってきているはずです。それを認めてください。 窮すれば、その人の実情が分かります。実情とは、窮状にある形の世界の現実ではなく、その人の意識の世界です。その人にとって、一番大切なものは何か、はっきりと浮かび上がってきます。浮かび上がってきているはずです。それを認めてください。アルバートに向いていかなければならないという強迫観念や、向いていきたいとする希望的観測などでぼやかさずに、正味の自分自身の現実をまず認めていくことです。 アルバートを信じていない、アルバートがないとはっきりと感じるほうが話は早いです。自分に下駄をはかせても、空しいだけです。それよりもまず自分の状態を直視して、それを自分の中で認めていくことが先決です。 何が自分にとって一番大切なのか、肉と出てくるならば、それこそ必死でやり直すことだけに専心すること、アルバートと出てくるならば、臆せずにそれを信じていくこと、その方向を定めていかなければなりません。肉を選ぶ方向では問題が解決されないことを、自分自身の体験より知っていくのでしょう。苦しみの中を苦しみながら知っていく、それしか自分自身を目覚めさせる方法はありません。 三四八、意識の世界は、頭でどうすることもできない世界です。頭で分かっているかもしれないが、心では分かっていない、日々の生活の中でつくづく感じているかもしれません。 肉に何かがあれば、当面どうすればいいのかと対処していくでしょう。頭を使って身体を使って、色々と最前の方法を模索していくと思います。それはそうだしそれでいいと思いますが、それで終わった訳ではありません。そこからが始まりです。いつまでも頭を使って肉を走り回らせているだけではと思います。一時期、頭も使い身体も使いもちろん肉の心も使っていきます。しかし、ある程度状態が落ち着いてくれば、アルバートだけです。どのくらいの時が必要なのか、人によって様々でしょう。あるいは、アルバートはなくて、ただ目の前の事態のみという人もおられると思います。 だから窮すればということです。その人はその時に何を選び、何を信じていこうとしているのか、はっきりとしてきます。アルバートを選んでいこうと頭は思いますが,心は思いません。ここで言う心とは意識の世界の心です。これが本当のところだと思います。肉として生きてきた意識の現実だと思います。 意識の世界は、頭でどうすることもできない世界です。頭では分かっているかもしれないが、心では分かっていない、日々の生活の中でつくづく感じていかれるかもしれません。 三四九、どんなに苦しくてもどんなに愚かであっても、自分を生かすエネルギーと出会えれば、幸せそして喜びでした。間違ってきたのは自分、これは人間すべてに共通することでした。肉を本物としてきたからです。膨張する欲の渦の中で、果たしてそのことに気付いていけるのか、焦点はそれだけです。 人生哲学を語る技量など私にはありませんが、最終的に生まれてきてよかった、我が人生万歳と自分に言えたらいいのではないでしょうか。私は、それにはアルバートしかないと私自身思っているだけです。自分に責任を取ることができる人生は喜びだと思っています。そして、アルバートを知って初めて自分に責任が取れると感じています。 肉を持ったことを自分のために最大限に活かすには、自分の培ってきた心のヒダを自分自身感じていくことだと思います。自分の苦しみは自分にしか分かりません。自分の愚かさは自分にしか分かりません。その苦しみや愚かさを解き放していって、ようやく自分が軽くなっていきます。 苦しみを訴えても、愚かさを隠しても、幸せの自分と出会えなかったと過去より学んできた意識は、ようやくそれらを自分の中で広げてじっくりと見て、だからこそ自分にごめんとありがとうが言えたのだと思います。 ごめん、ありがとうが言えたら、幸せな自分しか感じられなくなりました。どんなに苦しくてもどんなに愚かであっても、自分を生かすエネルギーと出会えれば、幸せそして喜びでした。間違ってきたのは自分、これは人間すべてに共通することでした。肉を本物としてきたからです。膨張する欲の渦の中で、果たしてその事に気付いていけるのか、焦点はそれだけです。 三五○、肉の世界もあって、真実の世界がある、その肉の殻を突き破って真実の世界しかない、そのようにともに歩みを進めていくには、自己確立が必須です。「私はオールマイティー」、この言葉が好きでした。しかし今は、独立独歩そして自己確立の道を勤しんでこそ、優しさと温もり安らぎの世界がある、そういう意味合いからこの言葉を見ています。 「私はオールマイティー」、この言葉が好きでした。そこからくる波動の世界を知らずに、ただこの言葉が好きでした。今は、独立独歩、自己確立が最も大切だと思っています。 ともに行きましょうというのは、自己確立が前提にあります。それがきちんとできて、そしてともに歩んでいく喜びを味わえるのだと思います。喜びは自分の中で色褪せることはありません。なぜならば、自分の中が確立しているからです。 自己確立をするのに、様々な肉の環境があります。肉と肉の環境をメインにして自分を考える、いかにその中で喜びや幸せや生きがいを広げていくか、そういう行き方は、全く逆方向に進んでいることでした。まだ、今の時点では、逆方向に進んでいることに気付けない状態が大勢を占めています。時が来ればということでしょうが、真実はこれだ、ピンと反応して、ともに同じ方向に向かって驀進していきたいものです。 肉の世界もあって、真実の世界がある、その肉の殻を突き破って真実の世界しかない、そのようにともに歩みを進めていくには、自己確立が必須です。「私はオールマイティー」、今は全く違う意味でその言葉を見ています。独立独歩そして自己確立の道を勤しんでこそ、優しさと温もり安らぎの世界がある、そういう意味合いからこの言葉を見ています。 三五一、アルバートに心を合わせともに歩んでいきたい思いがあります。しかし、肉でそれを妨げ邪魔している現実もまたお伝えしなければなりません。私のほうがすごい体験を重ねてきた、私だって心を見てきた、本当にそうでしょうか。それらを意識の転回にどれほど活かされてきたでしょうか。 『意識の流れ』『「意識の流れ」からのメッセージ』『ありがとう』、ホームページ、そして日々の実践、学ぶべき材料は溢れています。失礼ですが、『意識の流れ』はもちろん、『ありがとう』に至っても一読するだけではその中身は絶対に分かりません。己をそびえ立たせて言っているのではないことを分かってください。それらの出版物について、もし本当にご理解され納得されているならば、間違いなくご自身は変わってこられると思います。意識の流れにいざなわれ、私達が伝えようとしていることが、あなた自身の心の隅々にまで行き渡っていくからです。有無を言わせないものを感じられると思います。 アルバートに心を合わせともに歩んでいきたい思いがあります。しかし、肉でそれを妨げ邪魔をしている現実もまたお伝えしなければなりません。私のほうがすごい体験を重ねてきた、私だって心を見てきた、本当にそうでしょうか。すごい体験をされてこられたかもしれませんが、それを自分自身の肥やしにされてきたでしょうか。それらを意識の転回にどれほど活かされてきたでしょうか。 確かに肉で色々あるということは、それだけのものをその人は培ってきた証です。そして、その培ってきたものを、自分の中で見直していこうと決意されてきたはずですが、果たして自分自身の計画は滞りなく進んでいっているのでしょうか。有限の肉の時間の中で、何度もそのことだけを検証されることが大切かと思います。 三五二、何度かの転生ということは、何度かの天変地異ということです。他力のエネルギーを自分の中で知るには、天変地異しかないのです。肉を救え、私は肉だ、最後の最後まで本当の自分と対決していきます。すごいシナリオをみんな用意しています。 ドロドロでボロボロになった意識達が、二五〇年後に出会うことになっています。出会いがそれぞれの意識の世界にどのように波及していくか定かではありません。しかし、確かに言えることは、本当のことを肉を介して通過させたことです。確かにお伝えしました。ある方向を指し示したのです。それが今世でした。 私は、出会いから目覚めまで最短コースを辿ります。二五〇年後は、この出会いと目覚めから幕が開きます。そして電光石火の如くに伝わっていきます。その環境はもちろん、今世の比ではありません。その間に、様々な体験を経た意識達が結集してくるからです。何度かの転生の中で、それこそもう中は煮詰まった状態の意識達が、その中を爆発させるための時間が二五〇年ということです。 何度かの転生ということは、何度かの天変地異ということです。他力のエネルギーを自分の中で知るには、天変地異しかないのです。神を呪い自分を切り刻んできたネルギーを天変地異でしっかりと出会っていくシナリオだと思います。 肉を救え、私は肉だ、最後の最後まで本当の自分自身と対決していきます。すごいシナリオをみんな用意しています。 嬉しいです。地に落ちた意識が次元移行へ目覚めていく、私達は生かされていました。 三五三、肉の楽しみや喜びも、アルバートをメーンにして充分に味わっています。アルバートがメーンだから、肉の楽しみ方、喜び方が以前とは全く違うのだと思います。心を癒すために肉の楽しみや喜びを求めてきた以前でした。心を癒す必要がなくなった今、それらから私が感じているものは、全く別物になりました。 私は、心を見なければ、反省をしなければ、心を向けなければと修行じみたことをやっている訳ではありません。色々と生活は楽しんでいます。楽しむといっても繁華街を遊び歩くとか、飲み歩く、着飾る、そういうこととは無縁です。今はそういうことをして自分の心を癒す必要がないからです。 平凡ながら楽しい日々ですが、もちろんその日々の楽しみが私のメーンではありません。アルバートと通じた世界から見ているから楽しいのです。私にはアルバートの世界が現実であるし、二五〇年後の来世のことも現実だから、日々の生活のことはどうしたってメーンになってきません。特に何に関心がある訳でもありませんが、日々の楽しみを楽しみながらという生活は、決して悪くはありません。肉の楽しみや喜びも、アルバートをメーンにして充分に味わっています。アルバートがメーンだから、肉の楽しみ方、喜び方が以前とは全く違うのだと思います。心を癒すために肉の楽しみ喜びを求めてきた以前でした。心を癒す必要がなくなった今、それらから私が感じているものは、全く別物になりました。メーンにあるアルバートそしてこれからの私、それが背景としてあるから、苦しみに変わっていかなくなったのです。 日々を楽しむ、それはアルバートがあるから、変わることのない私の中の定義です。 三五四、他力のエネルギーをひとつひとつ解き放していった時に、少しずつ少しずつ優しい自分と出会えます。本当に優しいとはどういうことなのか、そして本当の幸せとは、本当の喜びの世界とはどんな世界を言うのか、みんなみんな心で分かります。 他力のエネルギーをひとつひとつ解き放していった時に、少しずつ少しずつ優しい自分と出会えます。本当に優しいとはどういうことなのか、そして本当の幸せとは、本当の喜びの世界とはどんな世界を言うのか、みんなみんな心で分かります。それはすさまじいエネルギーの底の奥底にあります。すさまじいエネルギーもその底は奥深いです。しかし、まだその奥底にこそ、本当の優しさと温もりの源泉があるのです。闇を出し、膿を出し、自分の中を突き進んでいこう、そうやって肉を持たせてもらってきました。汚くて当たり前、苦しくて当たり前、しかしその汚さや苦しさを通して、必ず源泉に出会ってやるぞ、思いは熱かったはずです。 誰一人として例外はないと思います。今は忘れ去っているだけです。喜びと幸せの源泉は自分自身である、この真実に本当に出会った喜びと幸せは、事の本筋を見極めていきます。全部自分が自分に伝えてくれます。どうすればどのように存在していけばいいのか、必ず自分をいざなう流れがあることを感じていきます。その流れを感じるまで、その流れに乗ろうと素直になるまで、自分自身は苦しみの中を這いずり回ります。肉を持ってしまえばそういうことに非常に鈍感になるだけであって、現実の姿は、肉を持っていてもいなくても変わることはありません。それを自分で分かっていくだけです。 三五五、自分を救うために生まれてきた、そう心が叫んだ時、自分を生かしてくれているエネルギーと出会えます。私はここからだ、ここからスタートしてきたのだ、そんな自分の思いが次から次へと湧いて出てきます。 学ばせていただいてありがとうございます。互いに肉を持って、互いの肉から学ばせていただきました。自分自身の世界を学ばせていただきました。肉が消える時、互いにそのように感じ合えたなら、感じ合える繋がりであったならば、もうそれだけで幸せでした、喜びです。 そのような繋がりの中に自らをいざなってきたことを、心の底から喜ぶことができるのは、汚れに汚れ切ってきた自分だと感じた時でしょう。大変な状態の自分なのです。自分を救うために生まれてきた、そう心が叫んだ時、自分を生かしてくれているエネルギーと出会えます。私はここからだ、ここからスタートしてきたのだ、そんな自分の思いが次から次へと湧いて出てきます。 そのような世界を心で感じていけば、肉を基盤として出てくる言葉や態度、どんなに立派で整然としていて、情に篤くても、肉は肉の範疇でしかなく、心を揺さぶるものではありません。 自分自身が揺さぶられるもの、それは真実を目指していく意識、本当の自分です。本当の自分に触れ、自分自身が揺さぶられ、地に落ちた意識は目覚めていくのです。 三五六、自分は何を大切に思っているのか、本当に自分を大切に思っているのか、そこが一番のポイントです。 必要な時に本当のことを真っ直ぐに語ることができるというのは大事なことです。語るべき時に実行できることが大切です。自分の中で確信があれば、感情移入はしない、淡々と、真っ直ぐに語ることができると思います。そして、それで完結です。そこには相手の存在はありません。もちろん、相手の思惑などどうでもいいことです。後はまた自分の中で自分を見つめていく状態に戻っていきます。 この人は何を大切に思い、あるいは大切にしていこうとしているのか、どのような方向で生きていこうと思っているのか、ともに生活をしている家族ならば、その人の生活態度、立ち居振る舞い、発する言葉そして何よりもそこから流れてくる波動から、だんだんと感じてくるのではないでしょうか。その人に、本当に自分と向き合って、自分に与えた時間に思いを馳せていこうとする思いがあるならば、その思いは必ず周囲に流れていきます。自分に真摯にひたすらな思いは、伝わっていきます。 逆も然りです。教祖、指導者的、支配的なエネルギーからは本当のことは伝わりません。ただの自己満足、いえそれに留まらずに闇を流していきます。伝えたいという思いが空回りしていきます。自分は何を大切に思っているのか、本当に自分を大切に思っているのか、そこが一番のポイントです。 三五七、思えば通じるということを、それぞれに学んでいってください。いつも語りかけています。アルバートの意識、本当の自分の思いはいつもそして絶えず語りかけています。あなたが思いを向けているかどうかだけです。 もうすぐ勉強会が始まります。。肉をセミナー会場に運べる人もそうでない人も、どうぞともに学んでください。新しい仲間に向けた勉強会です。すでに学んでこられた方々は、思えば通じるということを、それぞれに学んでいってください。いつも語りかけています。アルバートの意識、本当の自分の思いはいつもそして絶えず語りかけています。あなたが、思いを向けているかどうかだけです。 ホームページを通して、本を通して、喜びが発信されています。素直に心を向ければ、どれだけの幸せの中にある今なのか、それぞれの心に届くはずです。「幸せだ、嬉しい、ありがとう、まだまだまだまだ真実に程遠いかもしれないが、今あることがただただ嬉しいです。本当にありがとうございます」。少なくともこのように自分に伝えてやれる自分を心から感じられるように、素直に真面目に自分と向かい合いましょう。 嬉しければ素直にその喜びを味わい、そしてそうでなければ今一歩踏み込んで自分の心を見てみる、そうやって日々の時間を過ごしていけばいいと思います。幸せ過ぎて恵まれ過ぎて、みんな当たり前で、それが常態化していれば、何にも気付くことができません。 三五八、自分自身が今世、肉を通して本当のことを学ばせていただいたことを心から喜べるならば、どんな形にせよ、その喜びは形となって表れてくると思います。それと同時に、それぞれの学びが自分自身にとって、どのようなものだったかも、明暗がはっきりしてきます。 「ありがとうー意識の流れ姉妹編ー」、図書館寄贈にご協力ありがとうございます。多くの方に協力していただいています。学びに触れた喜びをこのような形でともに進めていけることが喜びだと思います。 自分自身が今世、肉を通して本当のことを学ばせていただいたことを心から喜べるならば、どんな形にせよ、その喜びは形となって表れてくると思っています。それと同時に、それぞれの学びが自分自身にとって、どのようなものだったのかも、明暗がはっきりしてきます。なるほど、肉としては大して変わりはないものの、その肉をもらってきたことに対して、どれほどの思いを感じているか、自分にとってアルバートとはどんな存在なのか、自分にとって学びとは何なのか、等々ひとつひとつ詰めていけば、今現在のその人の世界、意識の世界の状態がどんなものなのか、その差は歴然としています。しかし、それも仕方のないことです。肉の学びの範疇を超えずではどうにも仕方のないことです。 私は、今世の肉の私は大事だと思っています。その思いは、今世の肉の私という次元から見た思いとは違います。今の肉の自分とその人生だけを見ている観点から大事だと言っているのではありません。そこの違いを分かってくだされば、「ありがとうー意識の流れ姉妹編ー」、必ず感じるところがあると思います。 三五九、学びの姿勢を認めてもらう、誰に、田池留吉に、そのような空しいことは止めましょう。自分自身が培ってきた闇の世界に出会って喜んでいれば、それでいいのです。その喜んでいる自分を認めてください、その波動は真っ黒です。 学びの姿勢を認めてもらう、誰に、田池留吉に、そのような空しいことは止めましょう。自分自身が培ってきた闇の世界に出会って喜んでいれば、それでいいのです。その喜んでいる自分を認めてください、その波動は真っ黒です。本当に喜びが、幸せが心に広がってくれば、淡々と生活していくことが嬉しくて、今の肉、その環境にありがとうの思いが自然に出てきます。そしてその思いは当然、何らかの形を示していきます。だから周りが整ってくるのも自然だし、第一自分が幸せだとしみじみ実感します。 そうなってくれば、アルバートヘの道が厳しいことも自然に分かってきます。私のこの肉は戦争体験がありません。従って、軍律とかそういった厳しさとは無縁ですが、自分自身に殉じる思いが私の根底に流れています。アルバートに対して軟弱な思いでは、肉に流されていくでしょう。田池留吉に認めてほしいから、自分を現したいから、それでは学んでいることにはならないし、ましてや二五〇年後の再会を夢見てなんて本当に気楽過ぎます。 意識の世界には誰もいません。自分以外に誰もいません。その意識の世界でアルバート、本当の自分と通じずでは、どんなに肉でともに行きましょうと語り合っても、それは果たせない夢、幻です。このことをどこまで理解されているのでしょうか。 三六〇、片手間でして、分かっていける学びなら、二十年という月日を費やす必要はありませんでした。膨大な量の教えがある訳でもなく、言葉の数にすれば僅かです。しかし、その内容は二十年を経ても把握できていないというのが現状です。学びの内容を心で把握するとは、意識の転回を措いて他にありませんということです。 片手間でして、分かっていける学びなら、二十年という月日を費やす必要はありませんでした。膨大な量の教えがある訳でもなく、言葉の数にすれば僅かです。しかし、その内容は二十年を経ても把握できていないというのが現状です。心で感じてきている部分もそれぞれにあり、自分自身や周りも確かに変わりつつあると思います。それはそれで喜びです。しかしながら、意識の転回という観点からすれば、そのどれもがみんなフィルターに引っかかってしまいます。私はそのことを言っています。学びの内容を心で把握するとは、意識の転回を措いて他にありませんということです。私は決して片手間ではないと言われる方も、意識の転回を突きつけられたら、どうでしょうか。 私は、今回のかんぽうサービスさんの企画、図書館寄贈の件でいいお勉強をさせていただきました。様々な思い、思惑が伝わってきて、そして人それぞれの学び方をなさっているのだなあと感じさせてもらいました。しかし、要はそれぞれが意識の転回の緒に付けばそれでいいのです。そして、それは決して片手間ではできないことを感じていけばいいと思います。学びに対する取り組み方を検証されるのもいいかもしれません。日々の中の学び、そうではなく、学びの中の日々、二十年学んでこられた方々には、ぜひともそうであってほしいと思っています。 三六一、私は自分に懺悔してきました。間違い続け狂い続けてきた自分を確かに感じてきたからこそ、喜びが本当の私だと信じられるのです。その世界から見ている私の目には、肉の世界は本当に何ほどのものでもないと映ります。 淡々と我が道アルバートの道を歩く喜び、ふつふつと心に上がってきます。狂い続けてきた自分自身を思いながら、本当の自分が自分を誘導してきたことを実感しています。気付けば喜びだけです。肉として生きることがどれだけ愚かなことなのか、本当に気が付いていけば、言うまでもなく自分自身に懺悔です。そして、懺悔は喜び、喜びはその愚かな自分もまた包み込んで喜びとなっていきます。そこには、アルバートの道しかありません。だからその道を淡々と進んでいくということになります。 「心の底からアルバート、ともにともに歩いてまいります。その思いを深く強くしていくことが私の喜びでした、私の幸せでした」。心から突き上がってくる体験を経ていくために、それぞれ様々なシナリオを予定されてこられたし、これからもそうだと思います。他力のエネルギーの中から浮上してくることを、自分自身は信じています。その信をことごとく裏切り続けてきました。自分を裏切ってきた、その実感がないまま、今世もまたやり過ごしていくのでしょうか。 私は自分に懺悔してきました。間違い続け狂い続けてきた自分を確かに感じてきたからこそ、喜びが本当の私だと信じられるのです。その世界から見ている私の目には、肉の世界は本当に何ほどのものでもないと映ります。 三六二、セミナーがありホームページがあり何かともに学んだ仲間がいることで、張り切っていた時期もあったけれど、今はということがないように、自己確立を目指してください。どこか生きる姿勢をびしっとしていなければ、アルバートヘの道は進めない、私はそう感じています。 今は、はっきり申し上げてホームページがあるいは本が、それぞれ学びの本道を指し示しています。学んでいる方々がそれぞれに単独でその軌道を回っている方はどれくらいおられるでしょうか。というのが現状だと思います。ホームページでコンコンとノックされて、ハッと起きる場合もあるだろうし、人によっては、もうそのようなものはどこかにやっている場合もあります。やがてそのノックもなくなるだろうし、その時は本も本棚の片隅にひっそりと納められているだろうと思います。学びの友といっても、悪友かもしれません。それぞれが肉に忙しく、学びは忘却の彼方とはいかないまでも日に日に遠くになっていくでしょう。 自己確立ができていない現実とはそんなものです。セミナーがありホームページがあり何かともに学んだ仲間がいることで、張り切っていた時期もあったけれど、今はということがないように、自己確立を目指してください。ワッショイ、ワッショイと祭り気分では学びは遂行されません。人生哲学を掲げてというものでもないけれど、どこかに生きる姿勢をびしっとしていなければ、アルバートヘの道は進めない、私はそう感じています。 三六三、自分と自分、アルバートと自分と言っても、その間にたくさんのものを挟んでしまうのです。そしてその挟んだ状態で、心を見ようとしているからぼやけていってしまうのだということを、私は感じています。真っ直ぐに自分と向き合う、向き合うことは難しい、なぜか、そういうことだと思います。 目を閉じれば、喜び幸せの感覚と、やはり厳しさの感覚が伝わってきます。本当に喜び幸せであるから、厳しい世界なのだと思います。白黒がはっきりしている、曖昧なことはない、妥協、馴れ合いなどもってのほか、そういう点において、肉が強くては、困難な道だと感じられるのでしょう。意識の世界に肉を持ち込んでくるからです。他力に染まった心で、アルバートの世界も理解していこうとしている愚かさに、まだまだ気付けていない人は多いと思います。 肉を持たなくては真実の世界に触れることなどできないし、肉を持ってしまえば、自ら培ってきた他力の世界が前面に出てきてしまう、こういうことだとその実状を心で理解できれば、難しいけれど簡単、簡単なようで難しいことも分かると思います。特に自分と自分の世界、アルバートと自分、この点については、肉を持っているということで焦点が合ってこないと思います。このことを本当に理解できたならば、意識の世界は飛躍的に変わってきます。自分と自分、アルバートと自分と言っても、その間にたくさんのものを挟んでしまうのです。そしてその挟んだ状態で、心を見ようとしているからぼやけていってしまうのだということを、私は感じています。真っ直ぐに自分と向き合う、向き合うことは難しい、なぜか、そういうことだと思います。 三六四、社会や家族の中に属しながら、実は独立している世界がある、それらと切り離した世界を確立している、そしてその世界こそが自ら探し続けてきた世界だった、その境地に到達することは、意識の転回を始めなければ理解できないことだと思います。肉を持ちながら、今そのように感じています。 今はこのように、パソコンから発信させていただいています。できればホームページを通して、アルバートの世界に触れてもらいたいですけれど、それぞれ諸般の事情よりパソコンが日常的でない人もおられるようです。 しかし、アルバートの世界、波動の世界の真実を捜し求めている思いがあれば、その思いは必ず現象化していきます。今すぐということでないかもしれませんが、真実に出会いたい思いの強弱がその人の人生を左右していきます。と言うよりも、これからは何かを考えざるを得ない時が待っています。そして、その際、素直であるかどうなのか、それでまたぐっと近くになる場合もあるし、せっかく目の前までやってきていたのに、ずっと遠ざかっていく場合もあります。 要するに、その人にとって本当に大切なものは何かということだと思います。本当の意味で自分を大切に思っているかどうか、自分とは何なのだろうか、自分にとって家族あるいは社会とはどういうものなのか、いつも心のどこかでそういったことについて自問自答をしている、ただ単に一日が過ぎていくというのでは、本当のことに巡り合うということは難しいでしょう。 社会や家族の中に属しながら、実は独立している世界がある、それらと切り離した世界を確立している、そしてその世界こそが自ら探し続けてきた世界だった、その境地に到達することは、意識の転回を始めなければ理解できないことだと思います。肉を持ちながら、今そのように感じています。 三六五、日々の生活に心が追われているようでは、肉のための肉の人生ということで、意識の自分の世界を確立することとは程遠いです。 日々の生活に心が追われているようでは、肉のための肉の人生ということで、意識の自分の世界を確立することとは程遠いです。それでも、その人の人生はつつがなく過ぎていくこともあるし、それなりに幸せなひと時かもしれません。しかし、本当のことを知れば、そんな人生なんて本当に儚く哀れでしかありません。私の心には、そういうことが伝わってきます。「自分を大切に、自分のために生きて、あなたは永遠に存在するのよ」何かしている時、ふと心を向ければ、そういう呼びかけというか、今をしっかり見つめて、そして先を見つめる目を忘れないでという思いを感じます。 私は、人生哲学というか自分の存在の仕方について、自分の思いを持っていました。私の学びの道筋は、それを自分の中で照らし合わせながら、段々とアルバートに近づいていったということかもしれません。今は、それはアルバートとともに存在することだったと感じています。アルバートが私の人生、アルバートなくして私はあり得ない、すなわち私の存在そのものがアルバートだというふうに思っています。 このように感じている私にとって、今世も来世も喜び、幸せでないはずがありません。なぜならば、アルバートは喜び、そして私はアルバートを確実にとらえ、アルバートを信じている、この世にはアルバートの世界しかないと思っている、だから、それは当然の結果なのです。 三六六、「意識の流れ」そして「ありがとう」の波動の世界は、着実に遂行されていきます。私にはそれが嬉しいです。 必ずしも蔵書にしていただける保証はないということですが、全国の図書館等に収められていく本は幸せです。企画されたかんぽうサービスさんにも感謝ですし、ご協力いただいた仲間達にもありがとうです。この企画に対して、きっとそれぞれ様々な心をつかわれたと思います。協力させてもらう、協力しない、したくない、する必要がない、とりあえず状況を見てから、その企画があるのさえ知らなかった、と人それぞれですが、そこに働くエネルギーがあります。それは、その人の学びに対する姿勢だとか、学びのとらえ方について、その人の現状を正直に物語るものかもしれません。そして、それが当たらずといえども遠からずの感があるようにも思われます。もちろんすべてがそうだとは言い切れませんが、それは、その数、申し込み時期、そういったことに現れて来るのではないかと思います。 しかし、こういったことは、所詮どうでもいいことです。要は、図書館などへ寄贈の企画が粛々と執り行われ、やがて全国に「ありがとう」が旅します。そこで一人でも二人でも目に触れる機会があれば、それでいいと思います。「意識の流れ」そして「ありがとう」の波動の世界は、着実に遂行されていきます。私にはそれが嬉しいです 三六七、自分は暗い、真っ暗だ、なぜ私の心はこんなに苦しいのか、そこからが私の学びの出発でした。そして、学び始め、日が経てば経つほど、自分の中の暗さだけがクローズアップされてきて、真っ黒なエネルギーの塊が私だったことが、何度も何度も心に突き上がってきたのでした。 猪突猛進の亥年生まれの私は、自分がこれだと思うこと、ここだと思う時には間髪を入れない肉の癖があります。学びについてはそれが功を奏しました。私自身の学びのパターンはそうでした。食らいついたら、そこから気をそらさずに、肉のことも含めて可能な限り、自分がこれだと思うことに思いを集中していったのです。目処が付くまで、自分なりに納得がいくまで、一点に集中して学び続けていくという姿勢がありました。もちろん、そうであっても一直線に行かない状況も体験して、そしてそれをまた自分自身の肥やしにして、私は私の道を歩み続けてきましたし、これからもそれだけです。 自分は暗い、真っ暗だ、なぜ私の心はこんなに苦しいのか、そこからが私の学びの出発でした。そして、学び始め、日が経てば経つほど、自分の中の暗さだけがクローズアップされてきて、真っ黒なエネルギーの塊が私だったことが、何度も何度も心に突き上がってきたのでした。今ももちろん、大きなエネルギーの塊の自分を感じています。しかし、当時と違うところは、アルバートの実在を確信していることです。真っ黒なエネルギーが苦しいのではなく、嬉しいと感じられるところが完全に違っています。 三六八、自分自身が、自分の本当の思いを知らない、分からないから、当然、よかった、嬉しい、ありがとう、幸せは、一瞬にして全く逆の思いに変わっていくことも往々にしてあります。アルバートに触れた意識の世界には、形がどういう状態であれ、ただありがとう、嬉しい思いがふつふつと感じられるのです。 肉の思うように事態が遂行していけば、よかった、嬉しい、ありがとう、幸せと思うのは当たり前です。肉はそうです、肉とはそういうものだし、だからそれがどうとかではないですが、ただ、そこに留まって、それだけに一生懸命になり、自分の本当の思いまで行き着かないことが問題なのだと私は思っています。 自分自身が、自分の本当の思いを知らない、分からないから、当然、よかった、嬉しい、ありがとう、幸せは、一瞬にして全く逆の思いに変わっていくことも往々にしてあります。本当の意味で、よかった、嬉しい、ありがとう、幸せと思いが持続していくのは、自分自身の本当の思いに触れている場合だけです。アルバートに触れた意識の世界には、形がどういう状態であれ、ただありがとう、嬉しい思いがふつふつと感じられるのです。そういうものを感じ始めた時に、その状態で肉、形の世界を見て聞いて心に伝わってくる思いと、そうでない場合と全く異質のものです。よかった、嬉しい、ありがとう、幸せの質が違うことが、自分の心で感じられるでしょう。肉のよかった、嬉しい、ありがとう、幸せは、肉に留まらないことを感じます。 意識の転回、アルバートの実在、それだけが自分の心に喜びと幸せを蘇らせます。 三六九、人はなぜ生まれてくるのか、人はなぜ学び働き家族を作るのか、それは本当の自分と出会うためです。本当の自分と出会い、本当の自分を深めていくために、肉の時間があります。 人はなぜ生まれてくるのか、人はなぜ学び働き家族を作るのか、それは本当の自分と出会うためです。本当の自分と出会い、本当の自分を深めていくために、肉の時間があります。家族や社会の幸せと繁栄を願い、尽力しても決して報われないです。苦しみの中に沈んでしまっている自分を知らずに、見せかけの喜びと幸せと栄光を求めて、やがて時は経ち、肉体は朽ち果てていきます。 濁流の中で、幸せな人生でしたと語られても、濁流は濁流です。確かにその中で幸せだったかもしれませんが、それをそのまま受け取ることはできません。ましてや、不平不満愚痴だらけの人を見たり聞いたりすれば、もう何も言うこともありません。ああ、この人はこのようにして、貴重な時間を費やしているのかと感じられても、この人もいつかはどこかで気付ける時がやってくるだろうと思うだけです。 私は、私の時間の中で私を見つめてきました。その過程にセミナーがありましたし、勉強会もあります。自分と自分のためのセミナーであり勉強会です。私が完成する途上に肉も肉の生活もセミナーもその他すべてがある、物事をこのように見ることができるようになった今世、今という時は、私には何にも代えられないものです。 三七〇、新しく学びを始める方々に向けて、私の思いを語らせていただきます。どうぞ耳に入り目にしたことを丸呑みにするのではなく、自分の心を見ることから始めてください。自分の心に伝わってきたものを信じて、ただひたすらに自分の中で対話をしてください。 明日、どのような出会いがあるか楽しみにしています。私自身の学びであるとともに、喜びを共有していきたいと思っています。それぞれに苦しくて大変な心の変遷を重ねてこられて、ようやく今という時間の中で、出会わせていただく計らいの中にあります。このことが信じられるでしょうか。ホームページを見る習慣がついているでしょうか。本を何度読まれましたか。自分なりに準備をして勉強会に臨まれていますか。 ご承知の通り、今世の学びは二十年という年月を経てきました。紆余曲折を重ねながら今に至っています。一朝一夕にはいかないことは周知の事実です。どのように耳に入り目にされているか定かではありませんが、どうぞその耳に入り目にしたことを丸呑みするのではなく、自分の心を見ることから始めてください。自分の心に伝わってきたものを信じて、ただひたすらに自分の中で対話をしていってください。 学ぶ動機をしっかりと自分の中で検証してください。苦しい心を抱えていることに一日も早く気付いてください。そしてその苦しい心を抱えている自分が間違っていることを素直に認めて、そんな自分を許していってください。新しく始める方々に向けて、私の思いを語らせていただきました。喜びの出会いを楽しみに待っています。 三七一、どなたにも共通するところですが、私は間違って存在してきた、このことが自分の心に響いてこない限り、やはりどこまでも己が偉いです。心を見る、闇の自分と出会う、地獄の自分と出会う、そのために生まれてきた、お母さんに生んで貰った、お母さん、ありがとう、そう心の底から言える自分と出会う、それが喜び、幸せの道です。 意識の流れ勉強会、いいセミナーでした。新しい学びの仲間達がとても新鮮に思えました。学びの年月に関係なく、それぞれが何かを心で感じられ、そしてまた気付かれ、それをご自分のこれからに活かされていかれたらと思います。もちろん、なかなか一直線には難しいかもしれませんし、何と言っても、セミナーの回数は限られています。その中で、学びを進めていくためには、心をしっかりと決めて、本気になることです。要は、本人次第です。そうすれば、ダラダラ学んでいる人よりも、一回のセミナーで吸収すべきところは大いにあると思います。 さて、どなたにも共通するところですが、私は間違って存在してきた、このことが自分の心に響いてこない限り、やはりどこまでも己が偉いです。 また、セミナーがあるから行く、参加する、参加すれば何とかなる、何ともならないことをどなたも自覚してください。これらは、言い尽くされてきたことです。生きる姿勢、存在する姿勢を根本から変えていこう、本気になって、真剣に自分と真向かいにならなければ、本当のことなど絶対に分からないのです。 心を見る、闇の自分と出会う、地獄の奥底の自分と出会う、そのために生まれてきた、お母さんに生んでもらった、お母さん、ありがとう、そう心の底から言える自分と出会う、それが喜び、幸せの道です。心で分かってください。 三七二、この学びは宗教ではありません。従って、世間で言うところの喜びとか幸せとかを求める人と、この学びは合いません。本当の優しさ、本当の温もりを知らずに、肉を捨てていくことのやるせなさを、感じてほしいと思います。 この学びは宗教ではありません。従って、世間で言うところの喜びとか幸せとかを求める人と、この学びは合いません。その人の喜びとか幸せの基準が世間にあるのだから、当然私達とは合わないでしょう。夫が妻が子供が仕事が自分の身体が、そういう段階で迫ってこられても、心を見てくださいとしかお答えするしかありません。 これは、やはり大事なことだと思います。学びの動機に通じるからです。それと同じく、相変わらずあるのが、チャネラーになりたい、パワーが欲しいというものです。そして、それらの動機に共通するものは、すべて己が偉い意識ということです。己が偉いから、間違っている自分を認めることもできないし、ましてやそんな自分を許すこともできないのだと思います。根底に流れるのは、冷たい思いです。冷たい世界、真っ暗な世界にいることは、本当の優しさ、本当の温もりの波動に触れない限り、分からないというのが現実です。 本当の優しさ、本当の温もりを知らずに、肉を捨てていくことのやるせなさを、感じてほしいと思います。なぜ生まれてきたのか、自分の中でそうだと確信が持てる時、周りの風景はきっと違って見えるでしょう。肉は肉、それ以上でもそれ以下でもない、そう思えたなら、必要以上に気張ることも頑張ることも要らない、淡々とやればよいとなってくると思います。 三七三、闇の思いと言っても、すべてが喜びですから、その喜びが大きく広がっていく自分を感じながら、しかし、それに酔いしれることはなく、ただただ嬉しい、ただただ喜びが広がっていく、爆発していく、そういうことを感じているだけです。 セミナーに行きたい、その気持ちはよく分かります。セミナーに行きたい気持ちが、そのままストレートに真実の方向に向いているかと言えば、決してそうではありません。そこのところ、本当に心を見て、自分を見つめておられるのか、私には理解し難いです。セミナーに行きたい、切実にそう思うならば、もう二十年も学んでいれば、今はみんな幸せになっているはずです。夫婦として、親子として、一人の人間として、自分は幸せだと、しみじみ思うと思うのです。そんな人が、セミナーに行きたいと横車を押すようなことはありません。我欲をむき出しにして、セミナーに集ってきても、その結果は言わずと知れたものです。その場限りの喜び、その場限りのお勉強です。 学びを遂行していくには、そんな甘い姿勢ではだめだと私は伝えてきました。その場限りで喜んで、その場限りで涙して、それで自分がどのように変われるのだろうかと、思ったことはないですか。私は至って客観的に見ています。その場の雰囲気に流されることはありません。もちろん、闇の思いも喜びの思いも、心の底から突き上がってくることは体験済みです。闇の思いと言っても、すべてが喜びですから、その喜びが大きく広がっていく自分を感じながら、しかし、それに酔いしれることはなく、ただただ嬉しい、ただただ喜びが広がっていく、爆発していく、そういうことを感じているだけです。 三七四、ホームページはアルバート、田池留吉だという認識がありますか。ホームページを軽んずるということは、どういうことだか分かりますか。本末転倒、ピントはずれ、何かそのような感じの人が多いように思われます。それで、アルバート、本当の自分との出会い、それは難しいと思います。 「ありがとう」は「意識の流れ」の姉妹編なのです。「ありがとう」は「意識の流れ」と単独ではないのです。ふたつはひとつです。この意味がお分かりでしょうか。従って、ホームページもそういう形で進んできましたし、これからの勉強会、セミナーもそういう形で進んでいきます。そしてまた、そのホームページからリンクできるようになっているかんぽうさんのホームページがあります。なぜリンクできるようになっているのか、この辺のところが、まだまだご理解されていない人がおられたようです。 さて、ホームページをおざなりにしている人は、一体どのようにして、ご自分の学びをしていらっしゃるのでしょうか。そのような心で、アルバート、アルバート、と喜んでおられても、そのアルバートとは一体何なのでしょうか。以上のようなことを、今回のかんぽうサービスさんの企画を通して、感じさせていただきました。 あなたにとって、セミナーとは何だったのですか。ホームページはアルバート、田池留吉だという認識がありますか。ホームページを軽んずるということは、どういうことなのか分かりますか。本末転倒、ピントはずれ、何かそのような感じの人が多いように思われます。それで、アルバート、本当の自分との出会い、それは難しいと思います。 三七五、学ぶ動機、学ぶ姿勢も、それを見つめ直すことについては、自分自身に大変厳しかったです。その過程においては、なりふりかまわず、でした。一方で肉のことも考え、肉を調えながら、というような、そのような余裕は私にはありませんでした。 今、ホームページが閉じられても、私自身、何ら変わることはないと思います。目を閉じて、いえふっと思えば、私の中にそのホームページの世界が確立していることを感じているからです。ホームページは形です。形がなくなっても、私の中に息づいていますから、私はいつもと変わりなく、自分の中の自分を見つめ、そして私の中でホームページが続いていくということだと思います。 本当の自分の世界と出会いたかったから、今世肉を持ってきたことも、私ははっきりと感じています。肉を持って、肉に埋没しながら、それでも本当のことに巡り合いたかった私の思いを、私自身が現実のものとしたのです。 学ぶ動機も、学ぶ姿勢も、それを見つめ直すことについては、自分自身に大変厳しかったです。その過程においては、なりふりかまわず、でした。一方で肉のことも考え、肉を調えながら、というような、そのような余裕は私にはありませんでした。肉は平然と淡々としているようでも、私の中は必死でした。必死というのは、肉の私をどうするという欲からくるのではなく、ただひとつ、本当のことに出会いたかった、その思いからでした。その思いだけで、肉は動いてきました。また動けるようになっていたのです。みんな自分が自分に書いたシナリオだから、それが日を追うごとに感じられて、肉としても合点がいっています。 三七六、天変地異、それも想像を絶する天変地異が必然的に起こってくる、これが意識の世界の自然です。間違っているのだから、狂ってしまったのだから、当然それを修正する方向に、宇宙すべてが動いていくのです。 私は何が大事なのか、何が大切なのか、知っています。その思いに殉じていくことができます。私の今世とはそのようなものです。しっかり自分の来し方を見つめ、これからの自分をまた見つめていく、その道筋を自分で確認すること、これが私の今世の仕事です。過去から未来へ続いていく自分を繋いでいくことができる喜びと幸せを、自分の中で広げています。ともに存在できる喜びと幸せを心から味わっています。愚かな肉を頂き、自分自身が培ってきた闇の世界にありがとうと言えます。肉を持たなければ分からなかったからです。肉を持って愚かで間違ってきた自分と出会い、そして今、本当の自分とともに生きていくことを始めています。 これは、肉が自分だと思い、その中から抜け出てこなければ、絶対に分からないことです。肉では幸せになれない、なぜか、自分は肉ではないから、こんな自然なことが、もう分からなくなってしまった現実です。その現実を本物だとして、その中で身の栄耀栄華を求めていくことは、何とも愚かで哀れでしかありません。それを全部崩すために、これからの時間があります。だから、天変地異、それも想像を絶する天変地異が必然的に起こってくる、これが意識の世界の自然です。間違っているのだから、狂ってしまったのだから、当然それを修正する方向に、宇宙すべてが動いていくのです。 三七七、私の基本はアルバートです。アルバートを中心にして、今肉があり肉の生活があります。この基盤に立って私は物事を感じ見ています。当然、この基盤に立っていない人とは物の見方、価値基準が違います。接点がないことも感じています。 私の基本はアルバートです。アルバートを中心にして、今肉があり肉の生活があります。この基盤に立って私は物事を感じ見ています。当然、この基盤に立っていない人とは物の見方、価値基準が違います。接点がないことも感じています。違うということを認識して、私は私の肉の時間を過ごしています。 間違いを積み重ね、狂いに狂ってきた自分自身ですが、本当の優しさと温もりに出会った今は、きちんと自分にけじめをつけることができることが嬉しいと思っています。間違ってきた自分も狂ってきた自分も、ひとつひとつ拾い上げて、喜びを伝えていける、そのような世界が自分自身なのだ、そう思う時、私は何とも言えない喜びと幸せを感じます。 間違い続け狂い続けてきたからこそ、その中から脱却を切望し、心を決めてきた自分が愛しいです。そのような自分を裏切ることなく、ようやくここまで辿り着かせていただきました。何万、何十万、数え切れない母の思いが、肉を持たせてくれたことを感じます。 意識の転回、自らを救う唯一の道でした。私は、田池留吉、アルバートの意識と共に、この道をまっすぐに進んでいくことを誓った意識でした。今、そして二五○年後、肉を頂けることが最高の愛でした。 三七八、アルバートの道、真実の道は独立独歩であることを感じています。独立独歩の道は優しさです。自己選択、自己責任こそが、最大の愛です。自分に対する優しさがそこに表れてきます。 意識の世界は流れています。つまり、進化しているということです。ひとところに留まっていることはありません。私は、文字通りセミナーとホームページとともに成長してまいりました。そして、現在は、アルバートの道、真実の道は独立独歩であることを感じています。独立独歩の道は優しさです。自己選択、自己責任こそが、最大の愛です。自分に対する優しさがそこに表われてきます。他力の心が根深ければ、この自己選択、自己責任は冷酷と映ります。自分に対する冷たさに気付くようにと、自らにメッセージを伝えますが、他力のエネルギーはそれを呪いと恨みに変えていきます。 心を見て、過去からの自分を振り返れば、その通りですとなってきますが、他力のエネルギーはそれを妨げていくのでしょう。そのことに本当に心から気付けば、その人の存在の仕方、生きる姿勢が変わってきます。本当の自分に触れ、本当の世界を感じ始めたならば、何よりもどんなことよりも大切なものは何かが、自然に分かってくるからです。 表面だけの反省ではなく、本当に間違ってきましたと心の奥底から懺悔が噴き出してくるのです。そのような体験を経れば、もう決して後戻りすることはありません。自分の恨底がひっくり返る、その体験が必要だと思います。それをこれからの時間の中で、これからの転生の中でということだと私は思っています。 三七九、さて、二五○年後は、この学びの集大成ですから、今世のように学びが浸透していく時間は多く必要としません。それだけに、若さがさらに必要されていきます。体力、気力知力充分で、私はその時期に臨んで参ります。 たとえば、私は「ありがとう」の本の中で記したような体験を経て、セミナー会場に肉を運ぶに至りました。そしてそれが千載一遇のチャンスだと感じた私は、なりふりかまわずにセミナーに集中してきました。集中できる環境でもあり、その他、自分自身の気力、体力も充実していました。本当にそういう面においても、ありがとうしかないのです。肉体を通して学びたくても、その肉体が病んでいたり、自分の培ってきたエネルギーを、充分にその肉体で受け止めることが出来なかったりでは、自分自身の学びの足取りはもっと遅れていたと思います。 真実は、老若男女を問わず、誰にでも分かるもの、それは確かにそうです。ただ肉を持って、このように学ばせてもらった経緯を振り返れば、学びは、エネルギーを必要とする、肉の気力、体力、知力が必要だということは否めないと思います。 さて、二五〇年後は、この学びの集大成の時期ですから、今世のように学びが浸透していく時間は多く必要としません。それだけに、若さがさらに要求されていきます。体力、気力、知力充分で、私はその時期に臨んでまいります。喜びのエネルギーが爆発していく、その様を実際に肉を持って受け入れていくには、そこに集中していける環境と肉が必要だと感じています。 三八○、肉体細胞は加齢とともに、その機能は低下し衰えていきます。肉の法則です。そしてまた、自分の使ったエネルギーをまともに受けていくのが肉体細胞でもあります。これも肉の法則です。その肉の法則を、肉で何とかしよう、変えていこうとする欲の思いは人間独特のものです。 肉体細胞は加齢とともに、その機能は低下し衰えていきます。肉の法則です。そしてまた、自分の使ってエネルギーをまともに受けていくのが肉体細胞でもあります。これも肉の法則です。その肉の法則を、肉で何とかしよう、変えていこうとする欲の思いは人間独特のものです。何とかできないのに、何とかできる、何とかして欲しい、何とかしろ、本当に浅ましいばかりです。 後者の肉の法則は、根本を変えなさい、根っこが腐っていることに気付きなさい、自分が自分に出しているメッセージです。自分を嘆き、自分を恨み、暗く落ちていく自分であるのか、助けて欲しい、何とかして欲しい、縋り付く思いでよいと言われるもの、されるものに飛びついて肉の命の延長を希うのか、それとも自分の優しさ、温もりに肉体細胞を通して感じていける自分であるのか、それはその人それぞれです。 妙薬があり、革新的な医療技術を持ってしても、絶対に救えない自分の心です。命は救えるかも知れない、一時肉体時計の延長はあるかもしれない、しかしやがてその消滅の時がやってきます。肉体は消滅しても、苦しい自分の心はそのままです。その現実をどれだけ切実に、今心で感じているのだろうか、自分を見つめるチャンスです。 三八一、一度肉を置いて、そしてまた必要な時に必要な肉と環境を用意してくる自分を感じているから、今守りたいと肉で思っている思い、その執着の思いも自分の中で、いずれ段々と解消していくことでしょう。自分の中に厳然とある流れを感じ信じているからこそ、そのように自分に伝えることができます。 肉の世界に足を踏み入れながら、しかし、いつでもその肉の世界と切ることができる、私の思いはそのような思いです。守るものがないわけではありません。執着している思いもあります。しかし、今世なぜ生まれてきたのか、なぜ肉体を持って今ここにあるのか、私の本当になすべきことは何なのか、そういったことに、自分自身明確に答えることができるから、そういうことなのだと思います。 そのことを遂行していくために、肉とか肉の環境が整えられることを感じています。遂行していくために、必要だから整えられているのであって、その中で、己の肉をどうしよう、こうしよう、自分という存在を認めてほしい、そのために肉を鼓舞するエネルギーは極端に弱まっていることを感じる日々です。 本当に自分でもびっくりするくらいに、肉を高め肉を認めさせるエネルギーは萎えています。そんなことをしても何にもならないことを心底から感じているからでしょう。下らないし、無性に空しさを感じます。 一度肉を置いて、そしてまた必要なときに必要な肉と環境を用意してくる自分を感じているから、今守りたいと肉で思っている思い、その執着の思いも自分の中で、いずれ段々と解消していくことでしょう。自分の中に厳然としてある流れを感じ信じているからこそ、そのように自分に伝えることが出来ます。だから、肉の私に思いを向けても嬉しいのです。下らない愚かな肉が嬉しいのです。 三八二、肉が先行しているということそのものが、間違いだと分かることが難しいのです。そうやって何度も転生を繰り返してきた、苦しみから出て苦しみへ帰る転生、その循環を断ち切るには、余程のエネルギーが作用していかなければならないことは、明白です。 人間は、程度の差はあるものの、生き死にとか人生とか、そういうことに思いを向ける時が、言わば転機があります。そして、そういう時を経て、色々とあって悩んだり苦しんだりしてきたけれど、これでよかったのかもしれない、いやよかったのだという結論に達するのが殆どだと思います。 しかしながら、自分というものを根底からひっくり返すことは、難しいです。ある時期は悩み苦しむけれど、それも喉もと過ぎれば熱さを忘れるというようなことの繰り返しが多いです。 場合によっては、自分を追い詰めて病気になったり、周りを消し去ったり、挙句の果てにはその苦しさから自分を抹消しようとしたりして、もがき苦しむけれど、どのような手段に訴えても、何の解決策にも繋がってきません。 真実を心で知るということがなければ、このことは、全く理解できないことでしょう。肉が先行していく中において、解決策を肉の中で探していくのは当たり前です。その肉が先行しているということそのものが、間違いだと分かることが難しいのです。そうやって何度も転生を繰り返してきた、苦しみから出て苦しみへ帰る転生、その循環を断ち切るには、余程のエネルギーが作用していかなければならないことは、明白です。 三八三、アルバート、本当の自分、言葉などどうでもいいです。その本当の自分を知っていく時間と空間を用意してきたこれまでの転生、これからの転生、本当に心の底からありがとうの思いで迎え入れていきましょう。 私の思いは終始一貫しています。 私は本当の私に殉じていくことを喜びとします。 決して自分自身を裏切りません。 言葉では形容し尽くせない世界、それが本当の私の世界です。たったひとつの肉を持って、その世界に触れることができました。だからこそ、そのように言えるのだと思います。 肉があるからその識別のために名前がついているのであって、名前が○○であろうと××であろうと、私には違いありませんでした。その私が何かが分からなかったから、苦しんできたし、狂ってもきました。ようやく、そうではなかったと自ら気付き感じていくほどに、愚劣な私がまた愛しくもありました。 苦しみ続けてきたからよかった、狂い続けてきたからよかった、今ならそう思えます。肉を持ってその繋がりの中から、いかに喜びの自分と出会っていくか、みんな自分に課してきたハードルがあること、それが嬉しいと感じます。 アルバート、本当の自分、言葉などどうでもいいです。その本当の自分を知っていく時間と空間を用意してきたこれまでの転生、これからの転生、本当に心の底からありがとうの思いで迎え入れていきましょう。私は喜びです、お母さんありがとうございます、その思いが自然に心に上がってくるというのが、私達本来の姿なのです。 三八四、心の慟哭と真向かいになること、なるように自分に仕向けることは本当にすごいことだと思います。それほど真実に帰りたいとするエネルギーを心の奥底に抱えながら、今日これまでの時間と空間を頂いてきたことを感じています。そのエネルギーはさらに威力を増していくことも明白です。 何も持たない人間、守るべきものが何もない人間、仮にそういう状態であっても、自分は肉というところから抜け出すことは難しいです。最後の砦、守るべき己があるからです。ましてや、己の周りにたくさんのものを集めて握ってしまった状態ではその困難さは大変なものだと思います。ひとつ離し、ふたつ離し、そういったことを日々の時間の中でやっていく、そのために肉を持ってきたのに、その反対をしてしまうのが愚かな肉です。 心を見て己の愚劣さに気付いていくことが人生だと、ようやく心で知りました。有意義な時間を、悔いのない人生を、それは心を見ることをやらなければ、果たせぬ夢でしかありませんでした。 心の慟哭と真向かいになること、なるように自分に仕向けることは本当にすごいことだと思います。それほど真実に帰りたいとするエネルギーを心の奥底に抱えながら、今日これまでの時間と空間を頂いてきたことを感じています。そのエネルギーはさらに威力を増していくことも明白です。一度噴き出た喜びのエネルギーは、必ず正確に仕事をしていきます。欲の渦の中できりきり舞いしている、ちっぼけな世界を軽く飲み込んでいくのでしょう。 三八五、肉の殻は窮屈です。肉の基盤で肉の心を広げようとしてきた過ちが、これまでの宗教で示されています。だから、宗教の名の下に戦いが起こるのです。みんな平等、みんな幸せに、みんな平和に安らかに、戦いのエネルギーの中で、そのようなことが実現するはずがありません。 真実を感じ信じる意識であるかどうか、それだけが問われます。言葉は共通語に過ぎません。同じように表現されていても、中身がどうなのかということは、真実を知っているかどうか、己の本質に迫っていこうとする意識であるのかどうなのか、その点において全く似て非なるものになってきます。 みんな本当の自分との出会いを求めて、転生を繰り返している、これは変わらない事実です。そのことを自覚しているかどうか、その違いがそれぞれの存在の仕方に大きく影響していきます。求めても探しても決して分からなかった真実です。心を見る、このことを肉で知り得ただけでも、今世の大きな収穫と言えると思います。私はつくづくそう思っています。自由に伸び伸びと自分を広げていける、それは真実の世界に触れることなくしては不可能です。肉の殻は窮屈です。肉の基盤で肉の心を広げようとしてきた過ちが、これまでの宗教で示されています。だから、宗教の名の下に戦いが起こるのです。みんな平等、みんな幸せに、みんな平和に安らかに、戦いのエネルギーの中で、そのようなことが実現するはずがありません。 徹底的に、己の愚劣さに出会わない限り、平和で安らかで幸せな自分と出会えません。その愚劣さがみんな阻止しているのです。 三八六、瞑想をして、心に響いてくるものを信じて、そしてまた瞑想をして、それしか心に確信する手段はないのです。 真実に触れ、真実に目覚めることを予定してきた意識、私にはその自覚があります。自覚があるから、高飛車には出ません。しかし、自分の思いは真っ直ぐに通します。真っ直ぐに通すと言っても、我田引水的なものではないから、トラブルは起きません。だからと言って、相手方が理解しているかと言えば、決してそうではないでしょう。私自身も理解を求める思いもないし、私は私自身に素直に存在することだけを考えています。 それが私の幸せだからです。それが私の喜びだからです。今肉を持って、このような状態にある自分自身に幸せと喜びを感じています。後は何も要りません。 私の意識が予定のコースを歩んでいけるように、肉の世界が動いていくことを感じています。今の肉、肉の環境、来世の肉、肉の環境、すべてはその計らいの中にあることを、私は段々に感じてきて、今に至っています。瞑想をして、心に響いてくるものを信じて、そしてまた瞑想をして、それしか心に確信する手段はないのです。 肉の喜びと幸せを追求しても、決して自分自身を幸せにすることもできなかったし、喜びだけを大きくしていくことはできなかった、なぜなのか、なぜ私の心は苦しいのか、なぜ一時の喜びと幸せに留まってしまうのか、大きな疑問でした。 疑問氷解を自分の中で感じてきた私は、予定のコースを完遂していく喜びと幸せを感じています。中心棒は不動です。 三八七、小手先だけの対処方法では、どうにもなりません。自分の根底がガラリと変わる、それを一番待ち望んでいるのは、自分自身です。その優しさが、今のあなたに感じられますか。自分は温もり、自分は優しさ、だからこそ、自分を正すエネルギーが自分に働きかけてくるのです。 私は、私の今世を剣が峰だとか、徳俵に足がかかったとかの表現をしてきました。まさに、肉を持ってセミナーに集うということは、そういうことでした。心を見ることにより、それをはっきりと感じるに至っては、肉を持つことのありがたさだけが、心に響いてきたのです。肉を持たなければ、自分の間違いに絶対に気付けないことも感じてきました。もう後がない自分にとって、今何をすべきなのか、切実に迫ってきた問いかけでした。 今世と二五〇年後の来世の間には、真実を告げる肉は存在しません。これは事実です。この事実を今、あなたはどのように受け止めておられますか。 これから、さらに他力のエネルギーが噴き出してくる現象があちらこちらで起こってきます。形で見れば、様々です。しかし、その根本は他力の過ちを、自らに示しているのです。自分の作ってきた他力の世界を根底から見つめていこうとする促しです。小手先だけの対処方法では、どうにもなりません。自分の根底がガラリと変わる、それを一番待ち望んでいるのは、自分自身です。その優しさが、今のあなたに感じられますか。自分は温もり、自分は優しさ、だからこそ、自分を正すエネルギーが自分に働きかけてくるのです。 どうぞ、一個人の言葉として受け取るのではなく、自分自身の中からのメッセージとして、活用していただければと思っています。 三八八、心が変わるとは、基盤を変えるということです。道徳とか倫理とかで心を作るのではなく、自分の基盤を変えるのです。それを実践の中で、習得していきなさいというのが、学びです。従って、世間がみんながというところで躊躇しているようでは、学びの本質に触れていくことはできません。 実践の中で心を見ていく以外にないでしょう。頭では分かり過ぎるほど分かっています。実際に語ることもできます。どれだけ知識を持っていても、どれだけ語っても、心が変わらなければ何も変わっていないということです。心が変わるとは、基盤を変えるということです。道徳とか倫理とかで心を作るのではなく、自分の基盤を変えるのです。それを実践の中で、習得していきなさいというのが、学びです。 従って、世間がみんながというところで躊躇しているようでは、学びの本質に触れていくことはできません。少しは夫婦も親子も周りの様子も、緊張が緩和されていくことでしょうが、真実を極めていくことは、基盤を変えずして不可能です。 だから天変地異が必然的なのです。その実践の中で、自分を知り真実を知っていく、それが意識の流れの道筋なのだと私は感じています。肉の基盤から自らを離し、正常な軌道に自らを乗せていく、真実の自分に帰っていこうとする流れが、天変地異を呼び起こします。今という時間の中で、その事実を心に感じられることが嬉しいです。真実に帰ろう、それだけが唯一の現実の世界である、今肉を持ってそのように感じています。 三八九、どれだけ目に見える世界が本物だと叫ぼうとも、その形ある世界の崩壊の時がまもなくやってきます。自分の周りから、家族、仕事を含む環境、自分の身体、その他あらゆるものを通じて、人間そのものの存在の過ちを、はっきりと示す時がやってくるでしょう。 どれだけ目に見える世界が本物だと叫ぼうとも、その形ある世界の崩壊の時がまもなくやってきます。自分の周りから、家族、仕事を含む環境、自分の身体、その他あらゆるものを通じて、人間そのものの存在の過ちを、はっきりと示す時がやってくるでしょう。そういう局面の中で、いったい自分はどのように対処していくのだろうか、いけるのだろうか、濁流しか知らない意識は、濁流に飲み込まれていくしかありません。その濁流の中に留まって、自分を省みることは至難の業です。しかしそれでもなお、濁流の中から浮上していくことを要求されます。いかに厳しい局面にあろうとも、必ず本当のことに出会おうとする中からの促しです。真実に帰りたい、帰ろうとする思い、その思いが厳しい局面となって、目の前に現象化していきます。自分が自分に示す現象、根底に流れるものは、限りない優しさと温もりです。 本当の意味で学びをしてきた方々は、その局面を迎えた時、自分の来し方を振り返り、行く末を思うことができると思います。そういう意味において、何と幸せな存在であるのかと感じざるを得ません。自分と真剣に真向かいになること、そうして初めて学びの真髄、真実の道に一歩近づけるだろうということなのでしょう。 三九○、今世、伝えてくれる肉があった、目覚める肉があった、今世を境にして、宇宙は確実に変わっていくのです。その次元から、私は伝えています。 自分の存在の仕方を問うています。学びに触れても学んでいない人などたくさんいます。学びは、肉の夫婦や親子やその他の肉の繋がりにとっての潤滑油的なものに留まりません。多少、ぎくしゃくした関係は改善され、よかった、ありがとうとなっていくでしょう。しかし、学びの真髄に触れることはどうでしょうか。私は、大変現実的です。二五○年後の来世だとか次元移行だとかの一見、非現実的なことを伝えていますが、現状把握は、至って客観的にしています。 来年中頃に、ホームページが終了し、形の上においても、独立独歩です。肝に銘じてそろそろ真剣になされたらどうでしょうか。これから、二五〇年後に至る時間は、怒涛のようにそれぞれの世界に迫ってくるものがあり、大変厳しいです。 しかし、実は大変簡単なのです。肉を離しなさい、形にしがみつくのはおやめなさい、それを伝えてくれているだけなのです。そして、すべてを離せば、それが次元移行への道筋だというのが、学びの真髄に触れていくということです。 今世、伝えてくれる肉があった、目覚める肉があった、今世を境にして、宇宙は確実に変わっていくのです。その次元から、私は伝えています。ただ単なる潤滑油的なものではない、現実的な私が非現実的なことを喜んでお伝えしています。 三九一、昨今のニュースを見聞きしていても、無責任時代としか心に伝わってきません。みんな責任を転嫁しているだけです。責任の所在を相手に突きつけ、なすりつけ、決して自分達に落ち度はないのです。 咋今のニュースを見聞きしていても、無責任時代としか心に伝わってきません。みんな責任を転嫁しているだけです。責任の所在を相手に突きつけ、なすりつけ、決して自分達に落ち度はないのです。 申し訳ありませんでしたと、一斉に頭を下げます。マニュアル通りの文言で答弁して、そして儀礼的に頭を下げます。頭を下げられても、下げられた側は釈然としません。又下げた側も、とりあえずここは世間の風当たりを和らげるためにという思いでしょう。 宗教の世界はもとより、医療の現場も教育の現場も、その他、次から次へとダーティな部分が現れてきています。。救済措置、再発防止、どんな手段に訴え、歯止めをかけようとしても無理なのです。欲の渦の中にみんな飲み込まれていきます。 霊感商法、おれおれ詐欺、いじめ、自殺、児童虐待、臓器売買、援助交際、その他社会的な事件の根っこはみんな同じです。狂った人間の心の世界が、様々な形となって表面化しているだけのことです。社会現象、その形は様々ですが、みんな神と金に牛耳られている様を露呈しています。 そして、みんな誰も自分に責任を追及していきません。やれ裁判だ、何とかの被害者の会だ、こんな悲しいことは二度と起こらないような社会にしていきましょう、そんなことで根本的な解決はできません。己の無知を野放しにしていることに、気付いていくために、誰にも責任を問えない現象が起こってくるのです。 三九二、山積された問題を目の前にして、弱い部分にひずみが生じていきます。しなやかさがあれば、ひずみも持ち堪え、補強を待てばいい時もあります。しかし、大概は弱い部分から破裂して、膿が流れ出ます。流れ出すから、全体がこんなに腐り切っていたことも分かります。その損傷は奥深いことも次第に分かってきます。 物言えば唇寒し…でないけれど、熱く語れば語るほどに、真実を抜きにして進んでいっている形の世界が浮き彫りになってきます。語っている人は、そのことに対して何も感じないのだろうかと思います。語った言葉に空しさは感じないのかと思います。次から次へと顕在化してくる愚劣さに、何も感じていない人は少ないかもしれませんが、感じながら、それでもどうすることもできないのでしょう。 山積された問題を目の前にして、弱い部分にひずみが生じていきます。しなやかさがあれば、ひずみも持ち堪え、補強を待てばいい時もあります。しかし、大概は弱い部分から破裂して、膿が流れ出ます。流れ出すから、全体がこんなに腐り切っていたことも分かります。その損傷は奥深いことも次第に分かってきます。しかし、いい加減なところまでで終わりです。蓋をして表面をきれいに整えて、それで終わりです。 それで終わらない、だから、また形を変えて、表面化してきます。どの現場も、そのひとつひとつに対処することに終始しているだけで、物事の本質的なものに触れていこうとしません。触れていけば、自分達の今ある立場が、根底から崩れていくのを知っているからです。結局は、社会的弱者にしわ寄せがきます。そんな世の中です。そんな中に幸せと繁栄などないことを、それぞれが気付くべきなのです。 三九三、アルバートを知るために生まれてきた私には、私のエネルギーはみんなアルバートに向いていきます。それが自然の流れなのだと思うから、肉はその流れに沿って存在していけばいいと思っています。 すべてを委ね任せていくことができる世界を知ったことは、大変な出来事でした。幸せとはこういうことなのか、喜びとはすごいエネルギーである、肉を通して感じられる波動の世界は、まだほんの入り口でしょうが、田池留吉という肉がすべてを懸けて伝えてくれた世界を、感じることができるほど幸せなことはありません。地獄の奥底を這いずり回ってきた意識には、そしてそれを自覚しているからこそ、今の幸せは本物だと言えます。すごい転生の中を、よくここまで自分を繋いでくることができたものだと思います。いえ、この時を待っていた、信じていたから、繋いでくることができたのでしょう。目の前の現実よりも、もっと現実味溢れている私の世界を感じています。私の世界を肉を通して知るために、そして真実に出会うために、肉が必要だったことを感じている私には、肉は大切な器です。自分にとって、大切な器です。 形の世界の中で、自分の夢を実現させるべく、持てるエネルギーを傾けていくのも、その人にとっては価値のある人生なのかもしれませんが、アルバートを知るために生まれてきた私には、私のエネルギーはみんなアルバートに向いていきます。それが自然の流れなのだと思うから、肉はその流れに沿って存在していけばいいと思っています。 三九四、ある意味で偏屈でなければ、真実を極めていくことは難しいでしょう。こちらも適当に、あちらも適当に、これでは埒があきません。適当に人生を生きていって、それではアルバートの世界、真実の世界は決して分からない、このことを証明するために、これからの時間があるのだと思います。 心を見ていたら、肉のことはどうでもいいのか、私はそう思いません。心を見ていたら、特に身辺はシンプルになってきます。無用なトラブルを自ら背負い込むような、わざわざトラブルの渦中に身を投じていくことはしません。それでなくても、心に抱えきれないものを、もうすでに持っています。これ以上、それを助長する方向へ進んで行くには、あまりにも愚かだと思います。そうは言っても、心癖は愚かな方向へと引っ張っていきます。だから心癖なのでしょうが、今世、そのひとつでも、ふたつでも修正して帰ろうとする思いがあるなら、自然に身辺は至ってシンプルに、そしてただ我が道を行くということになるかと思います。 ある意味で偏屈でなければ、真実を極めていくことは難しいでしょう。こちらも適当に、あちらも適当に、これでは将があきません。適当に人生を生きていって、それではアルバートの世界、真実の世界は決して分からない、このことを証明するために、これからの時間があるのだと思います。考えているような生易しいものではないでしょう。それでは、具体的にどうすればいいのか、もちろん、心を見ていく以外に何もありませんが、肉で言えば、自分の周りをきれいにする、はっきりする、肉からでもそうしないと、真実への道は程遠いです。 三九五、なぜ、自分は生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、それを思う時、同時に、なぜセミナーがあったのか、それを考えてみてください。セミナーがあり、セミナーに参加できたことは、尋常ではありません。 なぜ、自分は生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、それを思う時、同時に、なぜセミナーがあったのか、それを考えてみてください。セミナーがあり、セミナーに参加できたことは、尋常ではありません。今という時に、セミナーは確かにありました。そしてその時間の中で、様々なお勉強が進められてきました。単に己を表し、認めさせようとする人たちもたくさんいました。また、以前として他力の心のままの人達もたくさんいます。 どちらにしても、セミナーは、そんな単純なものではない、そんな軽いものではないと、分かっておられる人は少ないと思います。それから心を知るには、これからの時を待たなければならないでしょう。 人ではありません。自分です。自分の気付き、そして、自分の修正、それをこれからの時間を費やして、どこまで自分でやっていくことができるか、これは大変難しいことだと思います。天変地異は、確かに、他力の間違いを目覚めさせるパワーです。しかし、そのパワーのとらえ方如何によっては、自分をさらに地獄の奥底に沈めさせていくことになりかねません。私は、そのように感じます。他力はどこまでも他力です。優しさがないのです。そのことになかなか気付けない、それはどれほどの地獄の奥底に落ちてしまった自分なのか、それを物語るものだと私は思っています。 三九六、転機は、そう何度も訪れるものではありません。転機は、自分の岐路、それは自分自身が間違っていましたと気付く時です。肉の自分を羽ばたかせるチャンスではありません。貪欲で愚劣な自分と出会えるチャンス、そのチャンスを活かして、自分の基盤を変えていくことを指します。 転機は、そう何度も訪れるものではありません。また、岐路に立っているとしても、右へ行くか左へ進むかの判断の基準が同じならば、どちらを選んでもそう大差はないでしょう。判断の基準が同じというところに、ポイントがありますが、それは見過ごされていきます。そして、肝心なものを見過ごしながら、選んだ結果を評価していきます。自分なりに評価をしても、それは同じ基盤の上だから、本当のところからすれば、どちらでもよかったのです。しかし、幸せになりたい、こうなりたい、ああなりたいと、欲望は膨らみ、またそのために色々なことを試みるのでしょう。貪欲です。貪欲がゆえに、肝心なものに気が付かないのです。気が付かないまま、それなりに過ごして、その人の人生は閉じていきます。 転機は、自分の岐路、それは自分自身が間違っていましたと気付く時です。肉の自分を羽ばたかせるチャンスではありません。貪欲で愚劣な自分と出会えるチャンス、そのチャンスを活かして、自分の基盤を変えていくことを指します。だから、自分の基盤を変えていく転機というものは、そう何度も訪れるものではないのです。グラリと揺れた地震程度では、自分の転機にならないです。 転機をものにして、浮上していくのか、それともさらに沈み込んでいくのか、そういうことになるかと思います。 三九七、肉の世界には、酸いも甘いもかみ分けたとか、清濁併せ呑むとか、そういったことがあります。要するにいい加減なのです。しかし、意識の世界には、そんないい加減なものはありません。欲が見え隠れするようなものとは合いません。 肉の世界には、酸いも甘いもかみ分けたとか、清濁併せ呑むとか、そういったことがあります。要するにいい加減なのです。しかし、意識の世界には、そんないい加減なものはありません。欲が見え隠れするようなものとは合いません。 長く学んでいる人達の中に、学びをしようとする先に欲が見え隠れする、そういうことを、あるいは人を、私は察知すると、肉の心はまだまだ狭いので、そういうものをすべて受け入れて、そういう人達と学んでいくことに、今はもう少々の抵抗があり、しんどいです。どうして、今になっても、純粋にそして一途になれないのかと思ってしまいます。 私は、純粋にアルバートだけを求めてきました。アルバートの世界を自分の中に確立することだけを目指してきました。そして、今現在があります。肉の安泰を願いながら、このアルバートの世界もという思いは、私の中にはありませんでした。私なりに捨て身で、学びとセミナーに取り組んできたつもりです。 また、私の中では、今世のセミナーは、すでに事実上終了しています。ただ、「意識の流れ」や「ありがとう」を読まれて、初めてセミナーに参加された人達には、少しでもという思いがありますが、それ以外の人で、欲が見え隠れするのを察知すれば、もう今はその時期ではないと思っています。 後は、自分の中において、セミナーで学んできたことを確認し、自己確立の道を淡々と歩んでいくコースです。それぞれが進化してください。いつまでも、くだらない欲と二人連れでは、せっかくセミナーで学ばせていただいたことも、水泡と化します。 三九八、目や耳を通して情報が伝達されても、受ける側にすでに持っているものがあるから、伝達されたものは微妙に違ってきます。同じ教材でも、それぞれの反応が違ってくるのは、すでに持っているものがあるからなのでしょう。その確認をすることが、心を見ることです。 同じものを見ても聞いても、それはその人のフィルターを通して、心に届きます。つまりは感じていきます。同じものでも、同じものを感じていくとは、限らないのがその証です。目や耳を通して情報が伝達されても、受ける側にすでに持っているものがあるから、伝達されたものは微妙に違ってきます。同じ教材でも、それぞれの反応が違ってくるのは、すでに持っているものがあるからなのでしょう。その確認をすることが、心を見ることです。自分は何を抱えているのか、そのことを自分の中で広げていくことができる肉の時問は、ありがたいのではないでしょうか。 本当の意味で、母の心に触れている人ならば、たとえ苦しくても辛くても落ち込んでも、それは自分に教えてくれていると知っているのだから、どんな時であっても、決して自暴自棄になって自分を切り捨てる、見失うことはないと思います。 そして、苦しめば苦しむほど、悩めば悩むほど、自ら暗いトンネルを抜けた時は、諸手を上げて喜ぶことができると思います。そんな時、口をついて出る言葉は、ありがとう、そして嬉しい、自分は馬鹿だったという思いに違いありません。同時に、そのような自分を一番待ってくれていたのは、自分でしたと思えるはずです。その生みの苦しみのようなトンネルを抜けていくことが、それぞれに必ず必要です。 三九九、どんなことにも当てはまると思いますが、ポイントを押さえることが大事です。それがずれていると、後はみんなずれていきます。この学びで言えば、そのポイントは意識の転回です。 どんなことにも当てはまると思いますが、ポイントを押さえることが大事です。それがずれていると、後はみんなずれていきます。この学びで言えば、そのポイントは意識の転回です。本当に単純です。ああなって、こうなっての過程はそれぞれにあります。その過程を語ったとしても、それではその結果を踏まえて、今どうなのだということになってきます。ポイントは常に、意識の転回にあります。 どのような環境、境遇であっても、その人に本当に意識の転回の局面が訪れ、そのままクルリと基盤を変えていけたならそれでいいのです。そうなれば、それぞれの環境、境遇はそのためにあるのだと心から思えるから、さらに幸せ喜びは、増幅していくと思います。何も持たなくても、何もなくても、私は幸せでした、そう思えることが、どれほどの幸せであり、喜びであるのか、感じていくと思います。そう思いながら、周りを見渡せば、ある、ある、不足はない、ということになるかと思います。本道を歩くために、みんな整えられていることを感じるから、生き方、存在の仕方、物事のとらえ方は、当然変わってくると思います。 あまり喜べなかった私でした。喜び少ない私でしたが、本当の喜びを知り、大いに喜び、そして、今は淡々としている、全部通ってきた道だから、上記のようなことが言えるのだと思います。 四○○、何も語らなくても、通じ合える優しさがあります。自分と語る時、自分と向き合う時、私は私に語ってくれます。優しさを感じます。母の心に通じた私は優しいです。パワーを感じます。目を開けて肉の世界に通じた私の心を和ましてくれ、包んでくれます。 何も語らなくても、通じ合える優しさがあります。自分と語る時、自分と向き合う時、私は私に語ってくれます。優しさを感じます。母の心に通じた私は優しいです。パワーを感じます。目を開けて肉の世界に通じた私の心を和ましてくれ、包んでくれます。この繰り返しの中で、いつかは私も肉を置いていきます。厳然とある母の心、そしてアルバート、思えば通じると知りました。自分を救うのは自分、見限るのも自分、厳しいけれど優しい世界に存在していることを感じます。 自分の原点を思い出しましょう、戻っていきましょう、力強い揺さぶりと促しに、ありがとうございますと最敬礼して、受け止めていく、それが、自分にとって最高の優しさであり、愛だと思います。本当の自分にほんの僅かでも気付いていこう、そうして自分に自分が与えた形の世界でした。どんなに愚劣であっても、その奥に、そんな自分の思いがあった、この出会いが、それからの自分の存在の仕方を、がらりと変えていくものだと思います。 本道を歩くことを自分に誓ってきた私にとって、その私をしっかりと支えてくれていた自分との出会いは、最高の喜びだと感じます。 四○一、今世、一つの転生をとっても、これまでにみんなすさまじいエネルギーを垂れ流してきました。だからこそ、セミナーに集うことができたのです。しかし、セミナーに集うことがどういうことなのか、本当にご自分の心でそうだと感じておられる人は少ないというのが現状です。 この学びをしていなかったら、私達夫婦はとっくの昔に別れていた、例えばこのようなお話をよく耳にします。夫婦別れはしていなくても、自分達はどのようになっていたか分からない、しかし、学びに繋がったからこそ、今は幸せです、とそれは何組ものご夫婦の実例があると思います。その通りです。その人達は、確かにこの学びの証人だと思います。また、その他の例を引き出してもそうだと思います。 しかしです。私にすれば、そのようなことはごく当たり前のことなのです。だから、そういうお話を耳にしても、それはよかったですねということになりますが、それも淡々として聞かせていただく中のお話のひとつに過ぎません。 そういう肉の世界のことを踏まえて、本当に学びの真髄、アルバートの世界に触れていってほしい、他力の世界から抜け出して、アルバートを感じ信じていく方向に、一歩歩みを進めてほしい、私はそのように思っています。 今世ひとつの転生をとっても、これまでにみんなすさまじいエネルギーを垂れ流してきました。だからこそ、セミナーに集うことができたのです。しかし、セミナーに集うことがどういうことなのか、本当にご自分の心でそうだと感じておられる人は少ないというのが現状です。田池留吉に出会えて嬉しい、確かにそうだと思います。しかし、その嬉しさが、他力の世界を崩していることに繋がっているかと言えば、それは残念ながらという表現になってくるのです。 四○二、学びは進化しました。進化しています。だから、それぞれもまた進化していってください。母を思い、母心を忘れ去っていった自分と、真っ向から向き合ってください。過去世とかチャネリングはもういいです。そのような次元からは、真実は見えてきません。 学びは進化しました。進化しています。だから、それぞれもまた進化していってください。母を思い、母心を忘れ去っていった自分と、真正面から向きあってください。過去世とかチャネリングはもういいです。そのような次元からは、真実は見えてきません。それが学びは進化したという意味です。つかまえる心、こだわる心、そのような状態のままでは、お伝えしようとする中身、つまりは波動の世界を感じ信じていくことは難しいです。大きな部厚い壁となって、真実の世界を阻んでいます。 素直でひたむきであれば、真実の世界は、どなたにも分かります。しかし、それぞれに、どこか一点、あるいはある部分が素直でないしひたむきでない、つまりは自分に課してきたハードルが跳び越せないのだと思います。なぜだと思いますか。 本当は、素直ということも、ひたむきということも、難しいことかもしれません。素直とは何か、何にひたむきにと言っているのか、欲心いっぱいでは、なかなか本質を突くことは難しいです。真似事はできます。しかし、中身は月とすっぽんです。限りある肉の時間です。自分に誠実にありたい、そう思いませんか。 四〇三、今、様々な問題に悩み苦しんでいる人達が、心を見ることをしていけば、そのような問題は、自ずと解決の方向へ向かっていくことは、はっきりしています。後は時間を要するだけです。 今、様々な問題に悩み苦しんでいる人達が、心を見ることをしていけば、そのような問題は、自ずと解決の方向へ向かっていくことは、はっきりしています。後は時間を要するだけです。 しかし、現実そうではありません。相談の窓口を設ける、話し合いの場を何度も設ける、その他色々な試みがあったとしても、結局は根本の解決までなされません。それが現実です。その中で、幸せや喜びを求め探してみても、そのようなものが見当たるはずがないのです。悩んでいる人、苦しんでいる人は、そこのところが分からないから、悩み、苦しんでいるのだと思います。 そのあたりの仕組みが分かれば、互いの存在は、何ともありがたいものになってきますが、所詮、心を見ることを知らない人達には、自分にとって不利益をもたらす人は敵としてしか映らないのでしょう。 肉を基準とした愛情は、憎悪の裏返しです。一瞬にして変わっていくのだということを、肉を持って、今世自分の中で確認させていただきました。その確認ができなかったから、これまでの転生は苦しみでした。それは自分に欲の思いがいっぱいだったからです。自分というものを全く知らない無知な存在だったからです。それが分かったから、これからの私は、自分以外はもう求めることはないと思います。私の中に溢れる温もりと優しさがありました。この世界をさらに進めていくだけだと思います。 四〇四、死んでしまいたいほど、悩んで苦しんで傷ついたとしても、本当に死んでしまうことほど、自分自身を裏切る行為はありません。もし、そのような人達が、母の思い、肉でない母の温もりに触れたなら、きっとそう思うと思います。 死んでしまいたいほど、悩んで苦しんで傷ついたとしても、本当に死んでしまうことほど、自分自身を裏切る行為はありません。もし、そのような人達が、母の思い、肉ではない母の温もりに触れたなら、きっとそう思うと思います。自分はなぜ生まれてきたのか、今なぜここに存在しているのか、昨今の心を痛める事件等を見聞きしていても、誰もそういうところから、物事の本質を突いていく人はいません。それは当然でしょう。なぜ自分は生まれてきたのか、それが分からないから、簡単に人を殺すし、自分で自分の命を絶っていくのです。 しかし、このような流れはどうすることもできないと思います。不祥事は次から次へと起こっていくし、人は簡単に死んでいきます。片方では、お金に踊り、神に踊り、やがては想像を絶するエネルギーにより、壊滅状態になっていく、この流れの道筋をしっかりと感じながら、ただ我が心を見ていく、これが私達が予定してきたアルバート、真実への道です。 人間の心を変えるには、よほどの体験が必要です。それ程地に落ちてしまった意識、私はそう感じています。 四○五、思う次元、感じる次元が違うと、本当に住む世界が違っていることを実感します。同じ肉の世界に肉を持っても、アルバートを感じている人とアルバートを知らない人、住む世界が全然違うことが実感です。そして、アルバートを知らない人が大勢を占める中、世の中、益々混沌としていくのは当たり前です。 アルバートを感じていけば、まず自分にけじめを付けます。自分に責任を持つことを第一に考えます。肉はそうなっていきます。そして、それは道徳とか規律とかで縛ったものではなく、本当に自然にそして喜びで、そうしていこうと思います。だからそれは続いていくのです。責任を持つことの喜びは、今自分が存在していることの喜びを彷彿させていきます。 それを感じていけば、周りがどのような体たらくであっても、それに左右されることなく、自分を見つめていけると思います。淡々と我が道を行くことの喜びと幸せが、心にふつふつと沸き起こってくると思います。 誰々が、何々が、そのようなところをグルグル回っていることの愚かさに、自分自身が気付き、そしてそこからさようならをする、自分を本当に大切に思っているなら、そのような生き方、そのような生きる姿勢を、肉から始めるでしょう。 自分に真面目に生きる、それは、肉を自分に用意してきた自分が一番望んできたことだと、私は思っています。思う次元、感じる次元が違うと、本当に住む世界が違っていることを実感します。同じ肉の世界に肉を持っても、アルバートを感じている人とアルバートを知らない人、住む世界が全然違うことが実感です。そして、アルバートを知らない人が大勢を占める中、世の中、益々混沌としていくのは当たり前です。 四〇六、住む世界が違っていると感じながら、それを知りながら、肉の生活を続けていく、だから目の前に起こることはあたかも映像を見ているかのようです。 住む世界が違っていると感じながら、それを知りながら、肉の生活を続けていく、だから目の前に起こることはあたかも映像を見ているかのようです。決してその世界に染まることはなく、溶け込むこともない、私はそのような心境です。なぜならば、私はその世界に生きていないからです。その世界に存在している自分は、自分自身でないと思っているからです。 私は肉の生活を維持していくことに、アップアップしていません。周りはすべての点において、整っています。争いもトラブルも何もない、本当に穏やかな日々を過ごさせてもらっています。もちろん、様々なことは起きます。しかし、それを私は、特に大変なことだと思わないだけなのかもしれません。なるようにしかならないというのではなくみんな予定通りに、事が運んでいると受け取れるから、形がどのようであれ、私の進路には何の支障もないのでしょう。 心は、意識は一点を見つめ、その方向に進んでいくだけだと思います。この方向性を私はずっと待っていたと思っています。肉や肉の生活など、後からついてくる、そのようなものは、その方向ととともに整ってくることを確信しています。 私のアルバートヘの道は、確実なものです。それを今世確認させていただきました。 四〇七、私の肉は普通です。普通とは、どこにでもあるという意味です。肉を持つことに意味があります。自分の間違いに気付くために肉を持つ、肉を持たなければ、自分の間違いに気付くことはできないからです。 私の肉は普通です。普通とは、どこにでもあるという意味です。肉を持つことに意味があります。自分の間違いに気付くために肉を持つ、肉を持たなければ、自分の間違いに気付くことはできないからです。 さて、どこにでもある肉、その肉の目を通して感じるものを、さらに自分の中のフィルターを通して感じていけば、住む世界が違うとなってきます。そしてそのフィルターは私自身の心の目です。その目を通して感じる世界が、私の住んでいる世界なのだと私は知っています。肉の目を通して感じるものと、心の目を通して感じるもの、どちらを選び、どちらを信じていくかです。ただし、心の目を通して感じていくには、その目が曇っていたり、閉ざされていたりしては、肉の目を通して感じるものを信じていく以外にないでしょう。 また、肉の目を通して感じるとは、たくさんの目を通して感じるものです。だから様々な思いが錯綜していきます。一方、心の目は一つしかありません。だから、思いがひとつなのです。心の目を通して感じるものは、アルバート、喜びだけです。肉の目を通して感じたものを、心の目を通して感じていけば、そこにあるのは喜びだけとなっていきます。その連結がスムースであればあるほどいい、もっと言えば、肉の目と心の目が一致していけば、肉はあっても肉はなしということでしょうか。 四○八、自分の心を見る、自分を振り返る、試行錯誤の中を自分なりにやり、そこでまた何かに躓けば、自分に問いかける、その繰り返しの中で、人は何かに気付けるのではないでしょうか。地獄の自分の中に飛び込んでこそ、自分に伝えてくれるもの、自分を導いてくれるもの、その存在に触れていくと思います。 私は自分の中の温もりや優しさを信じています。これが本当の温もりであり優しさであることを知っています。そして、それはどなたの心の中にもある、しかし、そのことを知るには、それぞれ自身です。自分が自分に教えていくものです。 そして、それぞれが自分の中の温もりや優しさに出会うためには、どこかで自分の地獄を覗かなければならないでしょう。言い知れない恐怖、不安、空しさ、寂しさ、悲しみ、怒り、そのようなものが自分の中で突き上げてきた時こそが、そのチャンスなのだと思います。それをごまかしたり逃げたりしていては、いつまでも地獄の中をさまよい続けるだけで、本当の自分を確認することは難しいと思います。みんな苦しいから、助けてくれ救ってくれ何とかしてくれ、この思いばかりに明け暮れるのです。さまよい続けている自分を見ようとはしません。 自分の心を見る、自分を振り返る、試行錯誤の中を自分なりにやり、そこでまた何かに躓けば、自分に問いかける、その繰り返しの中で、人は何かに気付けるのではないでしょうか。地獄の自分の中に飛び込んでこそ、自分に伝えてくれるもの、自分を導いてくれるもの、その存在に触れていくと思います。その過程にある人は、必ず自分は幸せの中に存在していた、私は最初から幸せだった、喜びは自分の中に溢れている、このようなことに気付いてきます。 四〇九、生きていく上で、肝心なところを押さえることなくして、枝葉のところでうろうろしている人はたくさんいます。枝葉のところで、幸せになりたい、豊かになりたいと、頑張っても限界があります。そうは思いませんか。 最初から幸せで喜びで、何もかも整っている人などいません。みんな、色々とあったから学びに繋がってきたと思います。そして、今は、その色々が、喜びに変わりつつあるでしょう。色々あったからよかったと思っておられることだと思います。 学んでいる人達が幸せなのは、自分の中にすでに、自らの存在について回答を得ているからだと思います。何かが起こっても、その状態で自分の心を見ていくだけだと知っているから、心に迷いはないのではないでしょうか。だから、幸せなのではないでしょうか。 生きていく上で、肝心なところを押さえることなくして、枝葉のところでうろうろしている人はたくさんいます。枝葉のところで、幸せになりたい、豊かになりたいと、頑張ってみても、限界があります。そうは思いませんか。それよりも、自分に与えられて今あるものから、幸せや喜びはいくらでも感じていくことができます。感じていけば、肝心なところも、枝葉のところも、はっきりとしてきます。だから、シンプルになってくるのです。枝葉はどんどん切り離して、自分の中心に思いを向けていこうとします。本当に自分が望んできたことに、思いを向けていこう、そう思うはずです。心に迷いはない、道しるべは、自分の中の本当の自分、それが学びの成果だと思います。 四一〇、私は、本当はもっと宇宙を語りたいと思っています。すべてをご破算にするために、宇宙が動いていきます。大きな流れの中のほんのちっぽけな存在だということ、肉を本物だと思っている意識はそのような存在であることを、もっと語りたいけれど、今はあまりにも非現実過ぎて、まだまだ時期尚早なのかと思い返しています。 今が二五〇年後の感覚で、今を過ごしているような感じです。だから基本的には、私はもう何も欲するものはないのです。肉は欲だから、食指が動くこともありますが、私の中は、それほどでもなさそうです。何に対してもこだわりは薄いし、特に何かに興味があるわけでもありません。悪く言えば、ぼうっとして生きているような気がします。 しかし、世の中は混沌としていることは、感じています。その中で、正義を振りかざしても、世のため、人のためにといきり立っても、返ってくる答えは、どうにもならない、流れは止められない、というものだということも感じています。明るい未来、平和な社会など、今の人類に築くことはできないことだけは確かです。根本が腐敗しているのだから、それは当たり前のことで、そのような中において、どんなにしても、出てくる結果は決まっています。それでもまだまだ、人類は負けていません。自分達の力を示してきます。そして、驕りのエネルギーは、自らに返ってくるのです。 私は、本当はもっと宇宙を語りたいと思っています。すべてをご破算にするために、宇宙が動いていきます。大きな流れの中のほんのちっぽけな存在だということ、肉を本物だと思っている意識はそのような存在であることを、もっと語りたいけれど、今はあまりにも非現実過ぎて、まだまだ時期尚早なのかとも思い返しています。 四一一、学びは、いわゆる人生相談的なものではありません。学びを肉の次元でしかとらえていない人には、宇宙は分かりません。宇宙より肉の自分、自分の家族です。あるいは、闇のパワーです。そのような素地に、宇宙の波動は分かるはずがないのです。波動が分からなければ、後は狂うだけです。 宇宙という言葉から、自分が連想する言葉を書き出してみたら、そこからまた色々なことが、自分なりに学ぶことができるかもしれません。しかし、学びを肉の次元でしかとらえていない人には、宇宙は分かりません。宇宙より肉の自分、自分の家族です。あるいは、闇のパワーです。そのような素地に、宇宙の波動は分かるはずがないのです。波動が分からなければ、後は狂うだけです。そのような転生を繰り返してきたことすら、自分の中で思い出せない人もあるし、今世同じ轍を踏んでいる人もあります。 私はそのような現状を知りつつ、それでもこれから宇宙を語っていきたいのです。学びは、人生いかに生きるべきか、いわゆる人生相談的なものではないことを、学びに触れたどれだけの人が理解しているのかと思いますが、私はそのような人達を尻目にして、どんどん進んでいきます。それが意識の流れであり、その流れを自覚している私は、枝葉でうろうろしません。宇宙を語るということは、自分を語ることに繋がっていく、だから私は嬉しくて、嬉しくて仕方がありません。肉では到底理解できない喜び、その喜びの世界を自分の中で味わっていこう、そう思っています。 四一二、私は、肉の世界から意識の世界への脱皮の中で、ようやく本物の宇宙の流れに出会う過程にあった、それを感じています。私は嬉しくて、嬉しくて、やはり宇宙でした。宇宙は、母、マザーの心でした。 私の喜びはあなたの喜び、その喜びの波動が、いつの日にかあなたの心にも届くことを信じています。ただし、肉でとらえる心では、それは無理なことだけは知っていてほしいと思います。今世の出会いが、二五〇年後に活きていくように、本当に日々精進してください。 私は、真実の世界を感じています。揺るぎない世界を感じています。肉の世界から意識の世界への脱皮の中で、ようやく本物の宇宙の流れに出会う過程にあった、それを感じています。私は嬉しくて、嬉しくて、やはり宇宙でした。宇宙は、母、マザーの心でした。五、六年前にそのことがチラリと心をかすめたようでしたが、今やっとそのことがはっきりとなりつつあります。 世間に流布している宇宙と違うことは言うまでもありません。また、肉の生活の中でアップアップしている人達には、宇宙なんて、どこか遠い世界のことかもしれませんが、私には宇宙こそが、自分自身のルーツであり、現実なのです。 私は、肉を持って自分のルーツに辿り着くことが嬉しいと感じています。だから二五〇年後の来世もまた、喜びで肉を持ってきます。お母さん、ありがとう、ただただそれでした。 四一三、学びの入り口はどこにでもあります。そしてまず門を叩き、中に入り、歩みを進めていくことが第一です。門付近でうろうろしていたり、玄関で立ちんぼではと思います。 肉を持っている時間は誰のためでもない、自分のために生きてください。 例えば、親が子供を養育する、逆に子供が親を介護する、夫婦は互いに労わり合う、しかしそれだって、みんな自分のためだと思うのです。みんな自分の学びです。そういうことを通して、自分自身が成長していくのだと思います。 親は子供とともに、子供も親とともに成長し、夫婦もともに成長する、そのように互いに対等の立場で、ということは、意識として互いにとらえることができたなら、これ以上嬉しい関係はないと思います。 また、そのような近しい関係が自分にはなくても、いくらでも学ぶことができます。例えば、自分の肉体細胞に思いを向ければ、そこから何とも言えない優しさを感じるのではないでしょうか。愚かな自分自身を支えてくれている、決して変わることのない思いを感じると思います。肉体細胞に支えられて今がある、そのように思いを向けていけば、必ずその先に肉をくれた母親という存在があります。肉をくれた母親から始まる母親の反省というものを通して、すさまじいエネルギーを蓄えてきた自分自身と出会えます。誰のためでもない、自分のために生きなさいと送り出してくれた母の心に触れていきます。 このように、学びの入り口はどこにでもあります。そしてまず門を叩き、中に入り、歩みを進めていくことが第一です。門付近でうろうろしていたり、玄関で立ちんぼではと思います。 四一四、意識の世界のことは、本音でしか言えません。厳しいと感じるかもしれませんが、「はい」と「いいえ」がはっきりしています。 学びの門を叩くきっかけなど、何でもいいのです。どうせみんな最初は、動機が間違っています。その修正をするかどうかが、大きなポイントです。ポイントを外せば、後は全部食い違ってきます。ポイントを外した学び方をしていたと、自分で気付くならまだいいほうだと思います。学んできた、やってきた、心を見てきた、そう言いながら、同じところをグルグル回っている人が多いのは、やはり動機の修正がなされていないからだと思います。 心を見ていないから、動機の修正がない、だから学びの道筋からずれているのです。どんなに瞑想をしても、どんなに反省をしても、道筋からずれているところで、瞑想をして、反省をしていることになります。 意識の世界のことは、本音でしか言えません。厳しいと感じるかもしれませんが、「はい」と「いいえ」がはっきりしています。いずれは、すべてをご破算にしなければならない時がやってくるのだから、自分に真摯に忠実になる喜びを、今世肉ある間に少しでも感じていけばいいのではないかと思います。そうしておいて、これからの転生を迎え、そして二五〇年後を迎えることができればいいのではないでしょうか。 四一五、宇宙は、大いなる波動の世界です。母の心に思いを向けていくと、私にはやはり私のふるさと、宇宙が出てきます。本当に嬉しいです。五、六年前は、向きたいけれど、向きたくない、懐かしいけれど、恐怖である、様々な思いを感じてきました。 事実上セミナーが終了している今の時期になって、再び宇宙という言葉を出してみました。学びの日の浅い人達には申し訳ありませんが、やはり宇宙に触れてみたいのです。しかし、日が浅いことで、何も気後れすることはないと思います。ただ、素直に宇宙と思っていてください。 宇宙は、大いなる波動の世界です。母の心に思いを向けていくと、私にはやはり私のふるさと、宇宙が出てきます。本当に嬉しいです。 五、六年前は、向きたいけれど、向きたくない、懐かしいけれど、恐怖でもある、様々な思いを感じてきました。宇宙と言えば、戦い、そのエネルギーを過去からずっと引きずってきました。アマテラスのエネルギーも宇宙と繋がっていました。だから、私達は今世、神国日本に転生してきたのです。 私の中では、アマテラスももちろん、ちっぽけな存在になりましたし、過去からの真っ暗な宇宙も、今はみんな喜びだと感じられます。この意識の世界を引っさげて、私は二五〇年後に再び、肉を持って、宇宙、UFO達とともに喜びの移行をし続けていくことが、分かっています。 日本語では、何かあまり上手に表現できないです。しかし、ずっと私の中で異語が流れています。これが宇宙のリズム、母の心なのです。私は、田池留吉と出会えて、本当に心から嬉しいです。 四一六、宇宙にパワーを求め、またそのパワーで宇宙を牛耳ろうとしてきたことに対して、母の波動は、そうではないことを、優しくそして力強く伝え続けてくれていました。ずっと伝えてくれていた、母なる宇宙の思いが心に響いてきます。 みんなが、自分の心の中のアルバートを思い出せば、もう何も語る必要などないのです。心の中の自分に思いを向ければ、みんな間違ってきたこと分かるからです。そして嬉しさだけが込み上げてきます。形を持つことによって、自分自身の愚かさを何度も何度も自分に伝えてきたことが分かります。伝えてくれてきた自分自身は優しさそのものでした。温もりそのものでした。 そして、さらに宇宙を思います。宇宙には、すべてのものが凝縮されているように思います。自分の奥深くに触れていくことに、何とも言えない嬉しさを感じます。細胞のひとつひとつが組み合わさって、私は、今自分の中を感じているのです。宇宙にパワーを求め、またそのパワーで宇宙を牛耳ろうとしてきたことに対して、母の波動は、そうではないことを、優しくそして力強く伝え続けてくれていました。ずっと伝えてくれていた、母なる宇宙の思いが心に響いてきます。私は、今そのことが嬉しいです。さらに混沌とする時代に突入していくこれからですが、宇宙という波動の世界は喜びです。喜びが形を崩していく、そして、崩れたところから喜びを感じていける、広げていける、そういうことだと思います。 四一七、ご自分の今の肉体が、あとどのくらいあるだろうかと考え、日々の時間を費やしておられますか。今日も一日が終わろうとしています。肉の時間は限りがある、だからこそ、自分に誠実に自分と向き合っていきたい、その思いは強いです。 ご自分の今の肉体が、あとどのくらいあるだろうかと考えて、日々の時間を費やしておられますか。生命の危機に関わるような病気や怪我に遭われた時は、自分の死を身近に考えると思います。また年齢がそれ相当の人もそうでしょう。そうでなかったら、やはり死は、まだ遠い先のお話にしておこうということになると思います。 また、死を身近なものとして考えている人の中でも、死を真正面から見つめていこうとする人はほとんどいないのではないでしょうか。見つめていくことができないのだと思います。意識の転回が捗っていないから、死を真正面からとらえることはできないのでしょう。死への恐怖心が先立って、というのが、現実だと思います。しかし、生まれてくることができたことを、心から喜べるようになれば、また死というものに対する自分の思いも変わってきます。 私自身について言えば、私もまだ自分の死は先のことだと考えています。自分の死を思う時、まだまだ心にひっかかりはあります。しかし、その一方で、肉体細胞とお別れしていくことが喜びという思いも感じています。ありがとうございましたと告げることができるだろうとも思っています。 今日も一日が終わろうとしています。肉の時間は限りがある、だからこそ、自分に誠実に自分と向き合っていきたい、その思いは強いです。 四一八、私は、自分自身宇宙とかUFOに対しての思いが強いことを感じてきました。だからこそ、私にはアルバートは待って待って待ち続けてきた波動の世界のことだったのです。アルバートの波動に触れた瞬間が、私の変わり目でした。 私は、自分自身、宇宙とかUFOに対しての思いが強いことを感じてきました。だからこそ、私にはアルバートは待って待って待ち続けてきた波動の世界のことだったのです。アルバートの波動に触れた瞬間が、私の変わり目でした。忘れもしない、二〇〇〇年一月のあの瞬間に、私自身が本当にこれから変わっていく洗礼を受けたように思いました。それほどの衝撃だったのです。それは、自分自身がその瞬間をどれだけ待ち続けてきたかを、証明しているようなものでした。道は、真っ直ぐにとは行きませんでしたが、しかし、それは肉を携えているからであって、私の中は、もう真っ直ぐしかなかったのです。 いずれ、私は、宇宙からのメッセージを、具体的に形にしていくと思います。それはすべてが自分自身の学びの道筋であり、自分自身の喜びであることを感じています。そして、その喜びは宇宙と繋がっています。はっきりと、自分の進むべき方向に思いを定めて、今の肉ができることを可能な限りしていこうと思います。これから二五〇年の間、それは私にとって近未来です。二五〇年後に繋いだ意識からのメッセージとして、それぞれの意識の世界にお伝えすることが出来たらと思っています。そして、ぜひ二五○年後に喜びの出会いをしたいと思っています。 四一九、目を閉じて字宙を思う時、自由な世界、温かい柔らかい世界を感じます。アルバートとともにある近未来を思えば、ただ嬉しいだけです。ありがとうの世界が広がっていくのです。出会いが嬉しい、これからが嬉しい、宇宙は喜び、崩れていく世界は喜びです。 肉を持って、アルバートの波動を伝えにきてくれた田池留吉との出会いが、どれだけの喜びであったかは、宇宙に思いを向ければ向けていくほどに、奥深く感じます。肉の形などどうでもいい、肉など色々な癖があります。肉に完壁などありません。しかし、アルバートの波動を伝えてくれる肉は、私にとっては、本当に最高のものでした。この肉と出会うために、私自身も肉を持ったことが、ただただ嬉しいです。 学びに集う動機のひとつに、今現在の自分自身の悩み、問題の解決口を見つけたいというものがあります。私は、当時から、差し当たってのそういう問題はありませんでした。形の上においては、一応そういうものは終了していたから、その分だけ、学びをストレートにとらえることができたのかもしれません。自分の中で、自分なりに、練って練って練り続けて、そしてようやく自分の世界が開けていく喜びと幸せがありました。 目を閉じて宇宙を思う時、自由な世界、温かい柔らかい世界を感じます。アルバートとともにある近未来を思えば、ただ嬉しいだけです。ありがとうの世界が広がっていくのです。出会いが嬉しい、これからが嬉しい、宇宙は喜び、崩れていく世界は喜びです。 四二〇、学びの動機を検証する、これは本当に大切なことです。動機の見直しです。 「学びにずっと繋がってきたから、私は動機を反省してきました。そして、今はアルバート一筋でやっています」。しかし、それでも自分の心を見てください。 学びの動機を検証する、これは本当に大切なことです。動機の見直しです。「学びにずっと繋がってきたから、私は動機を反省してきました。そして、今はアルバート一筋でやっています」。しかし、それでも自分の心を見てください。そして、自分の動機が本当に間違ってきたことに対しての思いを感じていってください。その山を越えなければ、アルバートヘの道ではありません。アルバートであってアルバートでない道、すなわち、やはり他力の道です。 田池、殺してやる、この思いは、そう簡単に喜びへ転回できないのです。造反してきた思いは、そう簡単に心から離すことはできません。ましてや、ありがたや田池留吉の段階では、とてもとても他力の中を出てくることなどできません。どちらも、自分自身を知らない無知な状態です。 そのような状態で、宇宙を思うこと、UFOに心を向けていくこと、大変危険です。やめてくださいと言っても、そういう人達に限って、思いを向けていくのです。 母親の反省を通して、肉でない本当の母の温もりを心に感じてきたのか、大きなポイントです。ポイントを外した学びは、自分をさらに狂わせていきます。そうなってから、SOSを発しても難しいです。結局、学びに繋がったからと責任転嫁していく場合が多いのだと思います。 四二一、意識、波動の世界は、心でしか分からない世界です。頭で理解できる世界ではないことが分からない、どうしても頭で理解しようとしてしまう、理解できないものは信じられない、このパターンです。 意識、波動の世界は、心でしか分からない世界です。頭で理解できる世界ではないことが分からない、どうしても頭で理解しようとしてしまう、理解できないものは信じられない、このパターンです。自分はエネルギーの塊であり、しかもその蓄えてきたものは、真っ黒である、このことを、心で知っていくことほど幸せなことはないのです。そしてそれは肉を持たなければ不可能なのです。そのために生まれてきただけのことであって、その肉を本物として、肉の自分を自分だと思って、その自分の幸せや家族の幸せ、周りの幸せだけに、時間と労力を割いていく人生など、本当に中身が何もない人生だと私は思っています。 「そんなことはないです。私達はそれなりに幸せな時間を過ごしています。仕事にも家族にもそして健康にも恵まれて、ささやかかもしれないけれど、幸せや喜びを味わっています」。中身が何もないと言われて、このように反発する思いも、もちろん分からないではありませんが、それは世間一般常識の回答です。形の世界が基準ならば、その回答通りです。産んでもらったことを始めとして、周りすべてに感謝して、喜んで生活をしている人に向かって、何も言うつもりはありません。 ただ、自分の心を見る、自分を振り返ることによって、私は思い、エネルギーであることを確認させていただいた私には、そのような人生はもういいと思っています。 四二二、どんなに歴史上に残る人物であっても、所詮肉です。その肉を牛耳る、動かしていくエネルギーは、果たしてどこから来るのか、それは肉の次元に留まっている意識には、決して感じられないのです。 UFOは私の仲間達であると同時に、もちろん私の過去世でもあります。思いを向ければ嬉しいです。思いを向ければ、地球上に肉を持てた自分が嬉しいと喜んでいます。 宇宙には、ずっとずっと母の思いが流れていました。母の思いが宇宙そのものでした。私は今その宇宙に帰るべく、着実な準備をしていることを感じます。「意識の流れ」の中で、ほんの少しだけUFOに触れました。私達は、地球上だけの転生に留まっていないことを、伝えました。私達の意識の世界は、そんな狭い世界ではないことを知ってほしかったからです。地球上の過去世だけにこだわっていることが、私には理解できませんでした。それがどんなに歴史上に残る人物であっても、所詮肉です。その肉を牛耳る、動かしていくエネルギーは、果たしてどこから来るのか、それは肉の次元に留まっている意識には、決して感じられないのです。 私は、今その源を宇宙と呼んでいます。宇宙に本当に思いを向けられることが、自分自身の源を知っていくことになります。これから二五〇年に至る時間は、そのことを証明していく時間です。意識の流れの中の一端であった今世の学びは、これからの展開にとって非常に大切でした。出会いは必然的なものでした。 四二三、本当の世界を感じていけば、言葉は多く必要としません。思いを向ければ、通じ合う世界があるからです。本当に心から幸せと喜びを感じるのです。言葉は聞いているようで聞いていない、見ているようで見ていない、しかし、感じるものがある、それがともにある世界、宇宙、アルバートです。 必然的な出会いには違いありませんが、幸せな思いと不思議な思い、そして喜びが、心を巡ります。再び、このような時間と空間を持たせていただくことに感謝しかありません。 言葉を発すれば、人は言葉をつかみます。特に田池留吉の口から出る言葉をつかみ、それで落ちていく人は多いです。厳しくても優しくても、言葉を言葉としてしかとらえられない人は、結局自分の心を見ていないから、落ち込んで落ちていくか、喜んだ末に落ちていくかだと思います。 言葉や所作に乗せて、波動が流れています。みんなそうです。しかし、ほとんどの人が、言葉や態度に重きを置き、波動に関しては無頓着です。優しさを伝えているつもりでも、肉でいっぱいの波動は、本当の優しさや温もりを伝えることはできないのです。本当の優しさや温もり、喜びを感じたり、伝えることができるのは、その人自身が本当の世界を知って感じて広げていかなければなりません。 本当の世界を感じていけば、言葉は多く必要としません。思いを向ければ、通じ合う世界があるからです。本当に心から幸せと喜びを感じるのです。言葉は聞いているようで聞いていない、見ているようで見ていない、しかし、感じるものがある、それがともにある世界、宇宙、アルバートです。 四二四、宇宙を思う時、UFOを思う時、心から恐怖が消えていました。恐怖や苦しみ悲しみが、今の私にはみんな愛しいです。思うことが嬉しい、嬉しさが込み上げてきます。それは、私の心の針が、アルバートからずれていないからです。 すうっと宇宙に思いを向ければそれでいい、それで今あることが分かります。喜びで肉をもらってきたことが、分かります。喜びで生まれてきたこと、喜びで生まれてくること、今までもこれからもずっと喜びだったこと、宇宙が伝えてくれていました。 宇宙を思う時、UFOを思う時、心から恐怖が消えていました。恐怖や苦しみ悲しみが、今の私にはみんな愛しいです。思うことが嬉しい、嬉しさが込み上げてきます。それは、私の心の針が、アルバートからずれていないからです。アルバートを感じアルバートを広げている心の中で、宇宙を思い、UFOを思います。私には狂う恐怖はありません。宇宙からは、戦いのエネルギーは感じられないし、UFOからも喜びしか感じられません。ともに次元移行をしていきますというUFOの思い、それは私達人類のこれからに大きな変化をもたらしてくることと思います。 もっとも、私は人類とかUFOとかの区別はしていません。みんなひとつの宇宙の中にあるからです。母の温もりの中にある私達は、みんな同じところに帰っていくのです。母の温もりの中に帰る流れ、宇宙はまたそのことを伝えてくれています。 四二五、形ある世界は、ことごとく崩れていかなけれぱならないのです。そうならなければ、決して肉を本物とする思い、他力の思いを根底から覆すことはできません。 粛々として、ひとつの事業に向けて進んでいくこと、それだけを見つめながら、私は私の時間を過ごしていきます。私の思いは、宇宙に向けて発信していることを感じます。宇宙とともに私が動いていくことを感じます。それは、私の喜びでした。宇宙の喜びでした。 肉には分からないことばかりです。なぜ、今このような思いが出てくるのか、肉の私は唐突に感じています。しかし、私の中は確かに喜んでいるのです。宇宙と思うだけで、喜びの思いが広がっていきます。ああ、私はこの宇宙の中にあったのだ、私自身が宇宙なのだ、そう思えることに違和感はないのです。 形ある世界は、ことごとく崩れていかなければならないのです。そうならなければ、決して肉を本物とする思い、他力の思いを根底から覆すことはできません。もちろん、過去にも大陸のひとつやふたつは沈んでいきました。しかし、これからはそんなものの比ではありません。それを恐怖に感じ、呪いや恨みの思いをどんどん流していくか、それとも喜びで受け入れていくことができるか、それが、それぞれの意識の世界の分かれ道です。 肉を持つとはどういうことなのか、肉を持っている今世の時間を最大限に活用され、自分自身に問いかけていってほしいと思います。 四二六、宇宙、UFO、UTA、それらの言葉に浮き足立っていませんか。学びの基本は、心を見ることです。母の温もりを知ることです。心を見ていけば、そして本当に母の温もりを広げていったなら、自ずと他力のエネルギーを心から離していきます。そこから自分を解き放していきます。 それぞれの時間の中で、自分自身に目覚めるように設定がなされていることに、自ら気付くことが喜びです。それには、自分が作り上げてきた世界、すなわち偽物の自分を全部崩していかなければなりません。 宇宙、UFO、UTA、それらの言葉に浮き足立っていませんか。学びの基本は、心を見ることです。母の温もりを知ることです。心を見ていけば、そして本当に母の温もりを心に広げていったなら、自ずと他力のエネルギーを心から離していきます。そこから自分を解き放していきます。その基本をきちんとしていなくて、他力のエネルギーが何重にも巻きついている中において、宇宙、UFO、UTAなどは、恐怖以外の何物でもないと思います。興味本位とか、欲は、自分を狂わせていくだけです。そういったものが、狂わせるのではなくて、狂わせる要因を自分がつかまえているからです。そしてそのままどんどん思いを向けていくから、結果狂い続けるのです。 宇宙は喜び、UFOもUTAも喜びのエネルギー、温かくて広くて、ともにあることを伝えてくれる波動です。やがて、その喜びのエネルギーは、もっともっと具体的な形となって現れてきます。温もりに帰ろう、優しい母のいざないを、心で感じられる自分に蘇ってください。 四二七、意識の流れを感じていない人には、どんなに説明しても理解できません。しかし、何かを感じ、信じていこうとしている人には、心を見て瞑想を淡々としていけば、たとえ今その方向が間違っていても、その間違いに少しずつでも、自分で気付いていくと思います。 意識の流れを感じていない人には、どんなに説明をしても理解できません。しかし、何かを感じ、信じていこうとしている人は、心を見て瞑想を淡々としていけば、たとえ今その方向が違っていても、その間違いに少しずつでも、自分で気付いていくと思います。学びに繋がったから学んでいる、分かってきたと思ってしまいがちですが、けっしてそうではないことに、自ら気付いていくチャンスがあると思います。 意識の流れが厳然としてある証拠に、真実の世界から肉を持ってきた田池留吉の存在があります。真っ黒な地獄の奥底を這いずり回ってきたから、私はその事を心の奥深くに感じます。その意識が同じように肉を持って、このように、出会わせていただき、自分の間違いに気付き、自分に懺悔し、そして真実の世界に帰っていこうとしています。意識の流れが厳然としてあることを、私自らもまた、証明できたのです。 特に、今は宇宙を思えば、その流れが歴然として感じられるのです。そして、宇宙の喜びが、心にどんどん伝わってきます。「これからですよ。これからさらに宇宙は喜びをどんどん伝えていきます。」温もりと一緒に伝わってくる思いです。宇宙は喜びでした。喜びのエネルギー、アルバートの波動に触れて、宇宙はどんどん変わっていくことが分かります。 四二八、母の心は、宇宙に通じていた、宇宙は、母の心そのものだった、そう感じていることが嬉しくてたまりません。宇宙へ、ふるさとへ、母の心に帰る道筋にあることを確信する心には、喜びだけが広がっていきます。 自分の間違いに、自分で気付いていくほど嬉しいことはありません。自分が崩れていくことを、喜びで見つめていけるのは、自分自身が温もりであり優しさだからです。 あなたは喜びですよと、母は教えてくれていました。それは、最初に、母から伝えていただいていたことでした。肉を持って、自分を知っていく、母なる宇宙を知っていく壮大な計画でした。母の思いが心に伝わってくる時、その喜びを感じます。 母の心は、宇宙に通じていた、宇宙は、母の心そのものだった、そう感じていることが嬉しくてたまりません。宇宙へ、ふるさとへ、母の心に帰る道筋にあることを確信する心には、喜びだけが広がっていきます。 本当は私達とともに心を向けてほしいのです。私達の指し示す方向へ向いてほしいのです。そして、向くことができないもの、向くことを阻止しているものを、真正面から受け入れていってほしいと思います。真正面から受け入れるとは、地獄の蓋を喜びで開けていくことです。みんな、喜び、間違って存在してきたすべてが喜び、本当に心からそう思うことが出来たなら、地獄の蓋はどんどん開いてきます。そして、喜びの宇宙の中へ、進んでいくことができるのです。それをこれから二五○年の時間の中で、していってください。再会を楽しみにしています。 四二九、頭を通過させて出てくる文言と、心から湧き去ってくるものとは、全く違うのです。私は、言葉を伝えているのではありません。そこから波動を感じていただきたいと思っています。セミナーは、このことを中心にして、宇宙からの喜びをお伝えしていくだろうと思います。 セミナーがあるのに、行けないもどかしさは、正直言ってあると思います。また、肉を運ぶ、運ばない、の違いも、正直なところあると思います。しかし、心を向けるという点においては、みんなに公平です。二泊三日のセミナー、ともに学んでまいりましょう。 私達は、本当の自分に出会うために、ずっと転生してまいりました。ようやく、そのことを明かしていく展開となっているのです。 「今、自分の歩みを、しっかりと見つめていきましょう。そして、お母さんに産んでいただいたことを、心の底から喜べる自分に蘇ってください」。温もりから伝わってくるものを、言葉にすれば、このようなことです。何の変哲もない、誰しもが語ることができる内容かもしれません。しかし、頭を通過させて出てくる文言と、心から湧き上がってくるものとは、全く違うのです。私は、言葉を伝えているのではありません。そこから波動を感じていただきたいと思っています。セミナーは、このことを中心にして、宇宙からの喜びをお伝えしていくだろうと思います。 目を閉じて、セミナー会場に心を向ける、ただ無心にそうするのです。そうできる今がある、そうできる自分がいる、幸せではありませんか。嬉しいですよ。その幸せがその喜びが、あなたとセミナー会場を繋いでいきます。信じていってください。 四三〇、たくさんの狂った自分が、本当のことを教えてくれと、あなた自身に迫ってきます。そのような狂った自分を受け止めていけるのは、あなたの中の本当のあなた自身、温もりしかありません。そのことが確信できるまで、心を見てお母さんを思ってください。 波動の勉強を通して、今回もたくさん学ばせていただきました。どれもが私自身であると受け止めています。私は幸せ者です。 さて、今回特に感じさせていただいたことは、新しくセミナーに集ってこられた人を含めて、「あなたの転機は今ですよ。今があなたの転機、セミナーに集ってくるということは、そういうことですよ」、この思いでした。その自覚を欠いていることが、あまりにももったいないと感じました。それは、数多くセミナーに参加されてきた人の中にも、当てはまる人が、たくさんおられるように思います。 どうぞ、転機を逸することのないように、あなた自身を大切になさってください。肉のあなたは程ほどにして、中のあなた自身の思いを、感じていってください。 セミナーでの波動の勉強でもお伝えしましたように、私達はみんなお母さんの温もりを心に知っています。その温もりが私達の原点です。その原点を忘れ去った今の自分では、苦しいのは当然です。なぜ生まれてきたのか分からないのが当然です。そんな自分が、どんなに立派な父親であっても、母親であっても、また社会人であっても、何と愚かな自分だったのかと、心に響いてくる時が、もうまもなくやってきます。 たくさんの狂った自分が、本当のことを教えてくれと、あなた自身に迫ってきます。そのような狂った自分を受け止めていけるのは、あなたの中の本当のあなた自身、温もりしかありません。そのことが確信できるまで、心を見てお母さんを思ってください。 四三一、真っ黒などうしようもない自分と出会えれば出会うほど、喜びが幸せが大きくなります。やがて、真っ黒だという感覚も薄れていき、すべてが喜び、すべてが母の温もり、それが自分自身でしたということになっていきます。 田池を殺しにやってきた、この思いはどなたの心の中にもあります。お母さんの温もりをその心で知っているように、田池を殺すために私は生まれてきたという思いは、何も特別なものではありません。 真っ黒なものに対して、くそったれの思いをぶつければ、ぶつけるほど苦しさが増します。しかし、温もり、優しさに対して、くそったれ、殺してやるの思いをぶつけると、その思いは温もりの中に優しさの中に吸収されていきます。そして、大きく包まれて、やがてくそったれの思いは嬉しさに変わっていきます。それが自己供養の醍醐味です。自分を自分で包んでいく喜びを味わっていくことが、人生喜びに繋がっていきます。真っ黒などうしようもない自分と出会えれば出会うほど、喜びが幸せが大きくなります。やがて、真っ黒だという感覚も薄れていき、すべてが喜び、すべてが母の温もり、それが自分自身でしたということになっていきます。 濁流の中にいながら、流されずに存在することの喜びを味わっています。自分の中の宇宙を感じることが私の喜びでした。肉を持たせていただいて、その喜びと出会っていることが、ただ嬉しいです。 四三二、幸せだと感じるのに、何も要らないとは、不思議でした。思えることが幸せで、思えることが喜びだなんて、以前の私なら考えられないことでした。それが、今現実に、自分がそうなのです。 幸せだと感じるのに、何も要らないとは、不思議でした。思えることが幸せで、思えることが喜びだなんて、以前の私なら考えられないことでした。それが、今現実に、自分がそうなのです。 思えば嬉しい、思えば喜び、その方向に心の針を合わすことができる、自分を救っていくことができる、自分に本当のことを伝えることができる、これほど幸せなことはありませんでした。お金を出せば欲しい物は手に入れることができるし、楽しみや喜びは、人との交わりの中にも感じることができます。 しかし、全然違っていました。自分と自分の中で、母の温もりを広げ、母の思いを感じ、そして宇宙を感じていくことができる喜びと幸せとは、全く異質のものです。 物に溢れ、人が周りにたくさんいて、人の優しさに触れるといった形の世界がきちんと整っていても、自分の本質に触れずでは、所詮抜け殻なのだと思います。何のために生まれてきたのか、それを思う時、例えようもない空しさを感じてきた、そんな自分から抜け出すことができたことを、今は嬉しく思います。 四三三、本当に気付くというのは、間違っていましたと心から思えた時です。間違っていましたと心から思えるのは、本当の世界に触れたからです。本当の波動の世界に触れたならば、自分の間違いをはっきりと感じます。はっきりと感じられないから、本気になれないのだと思います。 学びの中枢部分について、言葉で表現することはできません。どんなに言葉を尽くし、説明を加えても、限界があります。学びの中枢部分はもちろんですが、学び自身についても、いくら説明されても分からないものだと思います。実践を通してしか、分からないです。たとえば、お母さんの反省にしても、実際に自分がペンを持ちノートに綴っていくとか、パソコンに向かってキーを打つとか、そういう作業を始めていかなければなりません。肉で最低限できること、やるべきことはきちんとしてください。 それから後は、各自の問題でしょう。何時本腰を入れて、自分と取り組むかの問題です。本腰を入れて、本気になって学んでいけば、そう時問は必要としません。なぜならば、きちんと分かるような道筋がすでに出来上がっているからです。こちらですよと明確な方向を示しています。ただ、本気になって、学んでいくことができないものが自分にあることに、気付けないだけです。気付いているが、自分から離すことができない状態だというのは、気付けていないことと同じです。 本当に気付くというのは、間違っていましたと心から思えた時です。間違っていましたと心から思えるのは、本当の世界に触れたからです。本当の波動の世界に触れたならば、自分の間違いをはっきりと感じます。はっきりと感じられないから、本気になれないのだと思います。 四三四、肉を置いて帰る世界は、地獄には違いないけれど、自分の進むべき方向をしっかりと知っている、確認しているという点で、過去からの自分自身と、完全に違っていることを感じています。ただ自分を見つめ、自分と向き合える喜びがあります。 生まれてくる時も、死んでいく時も、ひとりです。改めてそう思います。自分に与える時間の中で、自分の心を真っ直ぐに見ていくことを繰り返していくことが、至上命令でした。自分に思いを向ければ、やはり厳しい思いが帰ってきます。それほど苦しみ続け、本当のことを探し続けてきた自分であったことを、感じるだけです。 影の世界に浮かれて、自分を見失うことだけはしないでくれ、殆ど叫びに近いような心の奥底からの声を感じているからこそ、着実に地獄の中から出てくることだけに集中してきたと思います。 肉を置いて帰る世界は、地獄には違いないけれど、自分の進むべき方向をしっかりと知っている、確認しているという点で、過去からの自分自身と、完全に違っていることを感じています。ただ自分を見つめ、自分と向き合える喜びがあります。本当に優しい自分、温もりに包まれている自分自身の世界があることを知ったということは、本当に大きな一歩だったと思います。 何も持たずに喜びでひとりで生まれてきたから、死ぬ時も、何も持たずに喜びでひとり帰っていくことが、本来の自分達なのでしょう。その思いに沿って、一日一日を喜んで過ごしていきたいと、思っています。 四三五、誰のためでもない、自分のための人生、この思いを自分自身で、真っ直ぐに受けてください。 誰のための人生でもない、自分のための人生だ、身勝手な言い分にとられるかもしれませんが、自分に目覚めていけば、そこから流れるものを感じていかれると思います。みんな、それぞれに地獄を背負って生まれてきたことは、間違いのないことですが、自分の地獄にどこまで応えていくことができるかの違いはあります。 まず、それには、自分の地獄を知らなければならないし、知ったとしても、その自分とどのように向き合っていくか、ということで、課題は山積みだと思います。しかし、心をふっと向ければ、その山積みが嬉しいと感じませんか。そんなに待ってくれていた自分がいた、自分がいる、そのような自分と、今出会えていることが、何とも嬉しい限りではないでしょうか。 私は、今の肉を持って、連続する自分の時問と空間を感じてきました。過去から未来へ続く自分自身を感じ、予定通り、私の思いは、今、宇宙へと広がっています。苦しみ続けてきた宇宙に、今ようやく明かりが差し、私は自分というものを、さらに確認していくところに至っていることを感じます。宇宙を思えば嬉しい、宇宙は喜び、肉を持ってそのような自分と出会えたことが、本当に嬉しいです。 誰のためでもない、自分のための人生、この思いを自分自身で、真っ直ぐに受けてください。 四三六、思うこと、思いを向けることは、簡単なようで難しいです。そして、まず肉からでも喜びを見つけるということも、素直でない人には難しいでしょう。何でも喜んでいけばいいといっても、簡単に喜べない人もいます。無邪気に喜んでいたらいいのだけれど、なかなか難しそうです。 思うこと、思いを向けることは、簡単なようで難しいです。そして、まず肉からでも喜びを見つけるということも、素直でない人には難しいでしょう。何でも喜んでいけばいいといっても、簡単に喜べない人もいます。その人は、私は、そんな単細胞ではないと、へそを曲げているからであって、そんな下らないものものを取っ払って、無邪気に喜んでいたらいいのだけれど、なかなか難しそうです。 他力のエネルギーにがんじがらめの人は、喜ぶということがどんなにすごいことなのか、分かりません。それがどんなにすごいパワーであるのか、分からないのです。氷に閉ざされたような冷たい世界で念じるパワーを、それはすごいパワーの世界だと思っています。全くの非力でしかないけれど、温もりに大きく包まれている自分を知らないから、そのような世界を求め、ひれ伏してきた自分に、心からの懺悔はできないのだと思います。 どの道、これからは大変な時間を経ていきます。間違い続け狂い続けてきた意識の世界を転回していくために、すべてが用意されています。自分を繋いでいくことができるかどうかは、それぞれに託されています。信じて待ってくれている自分、つまりアルバートとの一致を見ないことには難しいと思います。 四三七、心を見るとは、自分を見ること、自分に耳を傾けることです。じっと見つめて、じっと聞いて、やがて優しさと温もりに包まれている自分を感じて、幸せと喜びが広がっていき、自然にありがとう、ありがとうの思いが心の底から涌いてきます。 これから、一年、二年、五年、十年…と月日を重ねるごとに、この学び、つまりアルバートの世界が実証されていくことが、感じられて嬉しい限りです。学びに触れてきた人は、自分自身の体験を通して、少なくとも今よりは、学びに対する姿勢が変わっていくだろうと思います。学びをもっと自分の中で評価していくと思います。今世、学ばせていただいたことが、どんなに幸せであったか、学びに繋がってきたことが、自分にとってどんなことを意味するのか、心で知っていくだろうと思います。 肉として生きることが、どれだけの過ちであるのか、どれだけ自分に冷たいのか、自分の心の声を聞けなくなってしまった人には、そんなこと分かるはずもありません。立派に生きても、そつなく生きても、自分に冷たければ、苦しい人生です。 心を見るとは、自分を見ること、自分に耳を傾けることです。じっと見つめて、じっと聞いて、やがて優しさと温もりに包まれている自分を感じて、幸せと喜びが広がっていき、自然にありがとう、ありがとうの思いが心の底から涌いてきます。そのような時間と空間を、今、自分に与えていることに、例えようもないほどの幸せ感を感じていくには、それぞれにおいて、これから様々な体験を積み重ねていくことが必要だと思います。 四三八、学びは、道徳でも倫理でもありません。自分を縛るものではなく、自分を解き放すものです。解き放すためには、自分の中を本音で語ることをしなくてはなりません。本音の自分と出会える喜びを、心に広げていく過程で、しっかりと自分の方向が見えてくるのだと思います。自分の歩むべき方向が見えてきたなら、流れながら流されずの生き方が自然になってきます。 形の世界で流れながら、流されずに存在していくこと、そのためには何が必要なのか、どうすればいいのか、たくさん学んできました。流れながら流されず、確かに難しいことかもしれません。しかし、学んでいく人にとっては、それは自然です。自分を大切に自分を愛しく思い、本当の優しさと温もりを感じてきたならば、流れながら流されずの生き方は、自然と身についていきます。 形の世界とどのようにお付き合いをしていけばいいのかと、難しいことを考えなくても、ただ今ある自分の中を見て聞いていることが嬉しいだけで、後のことはそれなりに整っていきます。自分のあり方、幸せ感など、自分自身の思いを本音でとことん見つめていくことが先決です。自分が納得しなければ、途中必ず息切れし、中断します。学びは、道徳でも倫理でもありません。自分を縛るものではなく、自分を解き放すものです。解き放すためには、自分の中を本音で語ることをしなくてはなりません。本音の自分と出会える喜びを、心に広げていく過程で、しっかり自分の方向が見えてくるのだと思います。自分の歩むべき方向が見えてきたなら、流れながら流されずの生き方が自然になってきます。